私の履歴書 7(皇紀弐千六百八十年 令和弐年六月四日 四)

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 殿山小学校時代は覚えていることが少ないのです。小学校三年生一学期までいました。

 よつだちよこちゃんという女の子が好きだった(笑)。

 学校に行く途中に大きな池があって、子供たちの間では、底なし沼と呼ばれていました。あるとき、自転車で走っていると大きなトラックの運転手が、私に徒悪戯してやろうと幅寄せをしてきて私は池に向かって自転車もろとも真っ逆さま。

 さすがに慌てた運ちゃんは、途中の藪にひっかかった私と自転車を拾い上げてくれました。もし、池に落ちていたら当時はまだ泳げなかったのでどうなっていたでしょう(笑)。私の人生にはこういう「命のシーン」がたくさん(笑)。

 もう埋められているのかなあ。
 当時の主婦・母・妻というのは大変でした。母が病気になるまで、私は「お母さんはいつ寝ているのだろう」と思っていました。母が寝ている姿を観たことがない。

 電子レンジがないから冷ご飯は当たり前。炊いたご飯を必ずおひつにうつしていました。母はみんなが食べ終わるまで食べません。でも、食べない母を羨ましく思うことがふたつありました。

 ひとつは、カレー。みんなが食べ終わったら、カレーの鍋におひつに余ったご飯を入れます。つまり、ドライカレーみたいにして母が食べます。うまそうだなあ!!と思いました。

 もうひとつが、おこげ。最後におこげが余ります。これも美味そうだった。

 おやつを買ったことなどない。自然卵を生で、トマト(昔のトマトはうまかった)ひとつ、パンの耳を揚げたもの(パン屋さんに行ったら耳はただでもらえた)、たま~に、プリントかホットケーキ。

 あっ一番好きだったおやつは、夏ミカンの薄皮をむいてそれをコップに。スプーンで潰して重曹をいれたたまらなくおいしい夏ミカンジュースができます。

 野菜は祖母が庭に植えていたのでこれもあまり飼わなかった。庭には柿の木があり、裏庭には無花果の木がありました。おいしかったなあ。部屋の数は二つ。家族七人(祖母、父母、叔父、姉、私、妹)。

 まずしかったけど豊かでした。今、私たちは何を失ったんでしょう。

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このページは、宝徳 健が2020年6月 4日 08:08に書いたブログ記事です。

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