私の履歴書10(皇紀弐千六百八十年 令和弐年十一月六日 弐)

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 このシリーズもご無沙汰です。六月二十一日から書いていません。以前の履歴やアーカイブからご覧ください。

 さあ、小学校三年生一学期が終わりかけのときに、大阪府枚方市立殿山第一小学校から静岡県駿東郡裾野町立裾野東小学校に転校しました。裾野は今は裾野市になっています。当時は、こんな田舎があるのかと思うぐらいでした。

 国鉄(JRの前身)がまだ電化されておらずディーゼルか機関車でした。米の脱穀を水車でやっている農家がたくさんありました。

 六月二十一日の書き出しがこれです。

 さあ、そんなところで私はどういう小学校時代を過ごしたのでしょうか?

 六月二十一日の結びがこれです。
 私は泣かwない子供として生まれてきました。お産婆さんが私の足を持ってさかさまにして、何回か往復びんたをして、初めて泣きました。

 小さいころは身体が弱く、両親は「この子は、大人になるまで生きられないかもしれないね」と話して痛そうです。

 なので、父と母は、何とか生きてほしい、たくましくできないだろうか、と、私のするいたずらや無茶などにはかなり目をつぶりました。

 静岡県駿東郡裾野町(現在の裾野市)は、それを解決する環境がふんだんにありました。

 どこから話そうかなあ(笑)。

 まず、生徒の学力が抜群に高いこと(当時はまだ左翼教育は弱かったと思います)。世界的数学者の藤原正彦先生がおっしゃっています。「世界的大数学者は、間違いなく幼少のころ、自然が豊かな地で育っている」と。なるほど。がり勉なんて一人もいませんでした。みんな勉強が好きなのです。

 それと、自然の中で山川を駆け巡っているから、身体能力が大阪の人間より信じられないぐらい高いのです。朝学校に来たら授業が始まるまでに、運動場十週ぐらい「みんなが」普通に走っています。

 楽しかったなあ。さてさて、何から・・・。よーし、明日は、釣りから書こう。

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このページは、宝徳 健が2020年11月 6日 11:02に書いたブログ記事です。

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