道元の和歌14(皇紀弐千六百八十一年 令和三年十月十九日 弐)

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 道元は、こう伝えます。海の中に龍門という所があり、そこは波がしきりに打ち寄せる所です。いろいろな魚がこの波の所を過ぎるとみんな龍になります。それで龍門と言います。

 この龍門と言う所は他の所と、波が違っているけではない。水も同じく塩辛い水です。

 けれども不思議な力によって、魚がここを通ると必ず龍になるのです。魚はそのままの姿でたちどころに龍になるのです。

 「達磨門下禅僧の儀式も、これによって理解するがよい。場所も他の所と同じようなところであるが、修行の道場に入ると必ず仏となり租となるのである。食物も普通の人と同じように食べて飢えをしのぎ、衣服も普通の人と同じように着て寒さを防ぐことに変わりがないのである。」

 道元は、でも仏道に従うことで、たちまち、禅僧となると説きます。これには続きがあります。

 さて、前回、仏道に励むことを「辨道」と紹介しました。
 道元が師事した「如浄(にょじょう)」から、道元は様々なことを学びます。

 辨道時における要人を和尚は、たんさん上げていますが、ここでは三つを紹介します。

一、国王、大臣に新婚するべからず
一、名誉・利得に関することに視聴するなかれ
一、尋常(平生)応(まさ)に青山・谿水(せいざん・けいすい)を観るべし

「君は歳は若いが、古德を思わせる風貌だ。日本に帰ったら、市街には出ず、山に籠って修行するのだよ」如浄は、道元に伝えました。

 仏教では、心の善良な働きを失わせてしまう煩悩を「蓋 がい」と言います。貪欲(とんよく)・蹎恚(しんい)・惛眠(みんい)・掉悔(じょうげ)・疑 を五蓋と言います。 貪欲になり、疑い、怒りやすく、恨みがちになることで、頭がぼんやりすることを言います。

 如浄は、この五蓋を包み込んでさらに、もっとやっかいな蓋 森羅万象をありのままに観ようとしない無明蓋があるとします。道元は無明蓋の語を初めて耳にして啓発されました。

道元「その五蓋・六蓋を取り除く秘術がありましょうか」
如浄「君がこれまで行ってきた坐禅は何だったのかね。只管打坐(しかんたんざ)、ただひたすら坐禅をし、身心脱落、身も心も束縛から離脱する。六蓋を離れるには、これ以外方法はない。坐禅のほかに妙術などあるものか」と説きました。つづく

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このページは、宝徳 健が2021年10月19日 06:03に書いたブログ記事です。

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