私の履歴書 14 芹沢事件(皇紀弐千六百八十年 令和弐年十二月十三日)

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 一年、時間を巻き戻します。今日は愚痴(笑)。やられた方は忘れないのですね。気を付けないと(笑)。

 小学校三年生の一学期の終業式に転校しました。なので、友達がいない夏休みは退屈でしかたがありあませんでした。

 なので、二学期になって、クラスでたくさんの友達ができた時はうれしくてたまりませんでした。

 隣のクラスの担任が芹沢先生。とてもきれいな人でした(女性)。
 
 ある日の昼休みに、クラスのみんなと縄跳びをしていました。二人が長い縄跳びを持ってみんなが順番に飛ぶやつです。

 隣のクラスは、芹沢先生と鬼ごっこ。
 私は、縄跳びの二人の内一人の持ち手をしていました。

 縄跳びを回している時、鬼に追われた芹沢先生が縄跳びの持ちての私を軸にして逃げました。私は倒れそうになり、縄をうまく回せず、みんなに迷惑をかけました。なので、(大阪から転校したばかりもあり関西弁で)

なんやねん。なにしとんねん。

とつぶやきました。それが芹沢先生に聞こえました。

芹「今、何と言った!」

 20代に女性とは思えない形相と声で私に迫ってきました。

私「ひとりごとです」
芹「そんな独り言があるか!!!!」

と言って、私の胸ぐらをつかみ、往復びんたを始めました。10発や20発ではありません。10メートルを3往復ぐらいしましたから。周りの生徒はみんな青ざめました。芹沢先生は女性でしたからどこの指かは知りませんが指輪をしていました。それが私の頬と顎を傷つけ、血がしたたり落ちました。それでも

芹「わかったのか!反省しているのか!」

と、どなりながら私を殴り続けました。

私「僕の何がいけないのですか!悪いのは先生でしょ!」

と言い続けました。

芹「まだわからんか!」

 お前はそれでも女か、と、心の中で思いながら、芹沢先生をにらみつづけました。

 家に帰ったら、さすがにいつもの悪さの傷とは違うので母が驚きました。私は「林を走っていたら枝にひっかけてこんなになった」と言いました。昔の親はそれ以上問いただしません。

 こちらも先公ごときに負けたなどと恥ずかしくて親に言えません。

 当時は、これでも学校で問題にならないんですね。

 何か月か後に体育の時間がありました。理由は忘れましたが私は体調を崩して体育を見学していました。もう一人、この事件を知らない同級生も体調が悪く見学をしていました。

 芹沢先生はさすがにこの事件を悪いと思っていたのでしょう。このもう一人の子に「宝徳君と三人でボール蹴りしようか」言いました。この子が「芹沢先生が、三人でボール蹴りしようかと言っているよ」と見学している私に言いに来ました。

私は「冗談じゃない。まず、俺に謝るのが先だろう」

と思い、強く拒否をしました。美人だったし結構人気があった先生だったので友達は「なんだよ、せっかく芹沢先生がボール蹴りしようって言ってくれているのに」とむくれていました。

 芹沢先生は寂しそうな顔をしていました。当然やん(笑)。

 私も結構意地が悪いし小さな男ですね(笑)。なんでこんなことを思い出したのだろう(笑)。


コノウラミ に対する画像結果

 きれいな先生だったから仲良くしたかったね(爆笑)。ちゃんちゃん。をはり

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このページは、宝徳 健が2020年12月13日 14:11に書いたブログ記事です。

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