源氏物語129(皇紀弐千六百八十年 令和弐年大晦日 參)

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 前回は、一条兼良が女性を賛美したことを申し上げました。兼良は、我が國の文かは「やはらかさ(やわらかさ)」にある主張したかったのです。

 我が國は「和國」とも言います。和はやわらかいという意味です。人と人とを対立させ戦わせるのではなく、温かく包み込み、結び合わせる。それが和歌の道でした。和歌の美徳を体現した人が政治家や官僚やメディアになるべきですね。奪い合って足りなくした國ではなく、分け合って余らせてきた國です。

 これは古代からの我が國の在り方です。縄文時代の一万年間は、我が國には、退陣用の武器はありませんでした。支那大陸で動乱があり、漢帝國ができたあたりから、おそらく、支那大陸の人間が我が國にも攻めてきたのでしょう。武器を創り始めました。それが弥生時代です。稲作が大陸から伝わったのが弥生時代ではありません。稲作はもう1万年以上も前から我が國でやっていました。鳥濱貝塚や丸山遺跡をみるとわかりますね。むしろ稲作は我が國から大陸に伝えました。これは考古学上も証明されています。我が國のアホな歴史学会が認めたくないだけです。

 この「やはらかさ」は天照大神、素戔嗚命、月読命が誕生した話を見てもわかります。明日書きますね。

 では、本文です。第十九帖 薄雲 うすぐも です。
 薄雲には、四つのポイントがあります。

 まず一つ目。

 前回触れたように、光源氏は、自分と明石の君の間に生まれた幼い姫君を引き取り、紫の上のもとで育てようと決心します。

 明石の君としたら、これは母としてとてもつらいことです。故郷を捨て、洛外に住んで、光源氏が娘と共に光源氏が来ることを待つ・・・、という構想が崩れてしまいます。

 しかしながら、姫君は明石の君の基では、母親の家柄に問題があって特上コースの人生は目指せません。それが当時の社会通念でした。姫君は紫の上のもとで育てられれば、十分にかわいがられ、かわいらしく、美しく、高貴で、よく育てれば輝かしい未来が望めます。明石の君は、泣く泣く決心します。

 この辺の明石の君の苦悩と寂しさが 薄雲には書かれています。

 さて、弐番目のポイントとは・・・、つづく。

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このページは、宝徳 健が2020年12月31日 06:43に書いたブログ記事です。

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