宗祇(そうぎ 1421年~1502年)の源氏物語観を観ています。
宗祇は晩年の天才です。最初の連歌が四十一歳。それから数え年八十二歳で箱根湯本で没するまでの四十年間が宗祇の活動期でした。
関東では、太田道真・太田道灌の父子とも交友しました。
宗祇は、「和」の精神は孤独な人間の周囲に、美しい人間関係を拡大していく。個人が最初に築き上げる人間関係は「愛」である。すなわち、「男と女」が恋人となり、やがて夫婦となって家庭を営む。それが、親子関係にも発展するし、主従関係や友人関係へと発展していく。と、考えました。
ここに「伊勢物語」「源氏物語」が、男と女の恋愛ばかりを書き続けた根本理由があると宗祇は、考えました。源氏物語は、決して男と女の軽薄で淫靡な恋愛を描いた作品ではない。崇高な人間関係の構築を願った書である。そう信じた宗祇は、源氏物語五十四帖の中から、「理想の妻とは何か」を男たちが論じ明かした「帚木 ははきぎ」の雨夜の品定めに注目しました。そして、「雨夜談抄 あめよだんしょう」を書き遺しました。一条兼良もそうでしたが、この時代の一流の文化人はこの雨夜の品定めが好きですね~(笑)。
さて、本文です。
冷泉帝は、思い悩んだ末、光源氏に譲位して静かに暮らそうとまで考えます。帝のただならない様子を案じて光源氏が参上します。顔を合わせてみると二人は本当によく似ています。
光源氏は、冷泉帝の突然の譲位の願いを聞いて「とんでもない」と抑え止めます。
そこではじめて、光源氏は「それにしても少し変だ。帝は何か気づいたのではないか」と思います。
藤壺の女房であった王命婦に会って問いただしますが、「いいえ断じて他の人の知ることではありあmせん。ただ、藤壺さまは、これは天道義を損なう営み。主上への裏切りもはなはだしく、断じて仏罰のあろいうことを真実おそれられていました」
この帖 薄雲はすさまじいないようですね。
さて、薄雲の第四のポイントです。つづく
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