道元の和歌10(皇紀弐千六百八十一年 令和三年七月八日 參)

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 道元は、仏道を学ぶ心得として、まずもとからのとらわれた気持ちをすっかり投げ捨てるがよいと言っています。

 作法に従って姿勢を整えると、心もそれにつれて正しくなります。戒律に定められた行を守ると、心もそれにつれて改まります。初めから道心がなくても自分の道に逆らっても仏道を捨てずに学んでいると、しまいには本当の道心が起こるとも。

 たしかにそうですね。それはおかしいと思うという言葉がよく出てきます。おかしいと思っている自分がおかしいんですね。経営においてもその会社にはその会社の理念があります。その理念にぶつくさ言っても何にもならないですね。

 さて、道元の比叡山入山より三年前に慈円が詠んだ歌です。
あはれにも ひばらかきわけ 住む庵(いほ)に 今は友とや ましら鳴くらむ

です。ましらは猿です。

 当時の比叡山には密教・顕教・本覚思想が蔓延していました。人間の心にはもともと仏となる性質が備わっているとみて、その性質が本学と呼ばれます。

 止観業では法華三昧・常行三昧などの不眠不休の難行が行われますが、本覚では、すでに本覚をもつ人間がなぜに過酷な修行をしなければならないのかと説きます。

 道元は、法華経学習に精進する一方、わずか二年足らずで親鸞同様本学思想の見せる現実に疑問を覚えました。

 人間におは仏性があり、仏と私たちは差別がないという本覚思想が説いているが、それならばなぜ、過去の古徳たちはあたらめて発心し、悟りを求める修行をしたのか・・・・。道元が投げかけるこの疑問に答えてくれる学匠が比叡山には存在しませんでした。 つづく

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このページは、宝徳 健が2021年7月 8日 08:48に書いたブログ記事です。

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