ビルマの真実 1(皇紀弐千六百八十一年 令和三年二月九日 五)

| コメント(0) | トラックバック(0)
 判断はお任せしますが、俗に言うミャンマーの報道について、これだけは知っておきましょう。欧米の横暴のせいで漁夫の利を得たのは支那共産党だけです。結局欧米は自分たちの悪事がばれるので、スーチーが亡くなるまで、ビルマと特に英国の関係はよくなりません。軍は仕方がなく支那共産党と組んでいます。

 過去の私のブログから。二回に分けて。明日はロヒンギャをやります。

 2010年11月9日の記事です。タイトルは「アウンサンスー・チーの嘘」です。
 昔は欧米は奴隷船を仕立てて黒人を運び、農園などで働かせていました。

 しかし、現地で奴隷を働かせた方が合理的だと考えるようになりました。これが欧米流帝国主義植民地です。だから、日本が朝鮮と台湾で敷いた政策は植民地ではありません。日本は朝鮮と台湾を植民地にした歴史はありません。

 さて、この欧米流植民地をビルマを例にしてみます。ビルマの北のアッサム地方にお茶が発見されました。南のイラワジ河口が米作りに適しています。これを知った英国はビルマを植民地にしました。

 ビルマには歴史ある国王がいました。英国の横暴に国民が団結して抵抗する恐れがあります。それで、英国は、国王をインドに流し、王子を殺し、王女はインド人に払い下げて、王家の血筋を絶やしました。ついでに、国王が住んでいたお城を監獄に作り変えました。

 「ビルマ人の国ビルマ」も作り変えました。イスラム教徒のインド人を入れて、華僑も入れて、周辺の山岳民族もキリスト教に改宗させて山からおろして多民族多宗教国家に変えました。

 ビルまではインド人が金融を、華僑が商売を、山岳民族が軍と警察を握り、この国の主だったビルマ人は最下位層の農奴にされ、米作りをさせられました。


 英国にズタズタにされたビルマは、戦後、独立を回復すると英国的なものをすべて排除しました。まず大英連邦から脱退し、英国式の左側通行も、英語教育もやめました。国連を通じてビルマから英国が奪ったものの返還も求めました。英国は渋々奪った国王の王座や宝石を返しましたが、ビルマは英国の植民地時代の責任も糾弾しました。

 その中には国家の支柱であるアウンサン(スーチーのお父さん)の暗殺もありました。英国に殺されたのです。ビルマがそうやって騒ぎ続ければ、他の元植民地国家もやがて騒ぎ出します。欧米による植民地支配が明るみに出れば、東南アジアで残虐行為をやったのは、日本ではなく、アングロサクソンだということがばれてしまいます。

 欧米は裏で結託します。ビルマ非難を始めました。それに、現在メディアが絶賛している「アウンサン・スーチー」を使ったのです。

 彼女は父を英国に殺されています。本来なら反英のシンボルになるはずの十五歳の少女を英国に連れ出し、英国人として教育し、英国人の夫まで与えて手なずけました。スーチーは父を殺し、祖国を破壊した英国に忠誠を誓い、英国にそむく祖国を非難し「植民地支配の糾弾」事業を潰しました。

 米英はビルマ政府を軍事政権と非難し、厳しい経済制裁を科してビルマの口を封じました。白人国家にたてつくことへの見せしめです。アングロサクソンとはこういうことをやります。

 経済制裁はこの国の歩みを止めました。苦しくて苦しくて、ついにビルマは支那へ支援を求めました。欧米はバカですね。共産主義国家を勢いづかせたのですから。

 雪崩のように入り込んだ支那人は、金融も商売も独占し、ビルマは痰を吐き散らすあの不潔な支那人に占領されました。支那は発電所をビルマに作りました。でも、その電気は支那に送られ、ビルマでは停電続きです。
 
 ビルマでは、当然の支那の賄賂という悪弊も普及しました。たかだかパスポートを取るのにも賄賂が必要です。政治も支那化しました。それが、今、新聞紙上をにぎわしている選挙です。もう、軍事政権の全員当選が決まっています。

 確かに今の軍事政権はいけません。もう腐りきってしまっています。そりゃあ、腐りますよね。支那のやり方をまねるのですから。アウンサン・スーチーは、ビルマの堕落化に十分な役割を果たしました。そのスーチーをメディアは絶賛します。

 みなさん、
①マスコミの言うことを信じてはいけません。正しい勉強をしましょう。
②国際法などは、大国のエゴでどうにでもなるということです。経済力・軍事力は国にとって必要だということをしっかり認識し、日本人は早く目を覚ましましょう。
③支那が入り込んだ国はどうなるかを知りましょう。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/8683

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2021年2月 9日 17:38に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「私の履歴書 21(皇紀弐千六百八十一年 令和參年弐月九日 四)」です。

次のブログ記事は「故半藤一利氏(皇紀弐千六百十一年 令和三年二月九日 六)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。