芹乃栄(皇紀弐千六百八十二年 令和四年一月四日)

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 明日から二十四節気 小寒 しょうかん ですね。小寒は寒の入りと言われ、これからさらに寒さが厳しくなるころです。小寒から節分までの三十日間を寒の入りと言います。

 そして、七十二候は、小寒 初候 芹乃栄 せりすなはちさかふ です。芹が生え始めるころです。芹は、春の七草のひとつです。冷たい水辺で育ちます。一か所から競りあって生えているところから、芹(せり)という名前になりました。

 昔、覚えましたね~。春の七草。せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ、これが七草。いいなあ~。日本は素晴らしい。


 この頃の、和菓子は何かな? 季節と茶道と和菓子は共にひとつとなって成長していきました。そして、茶道も和菓子もどんどん進化します。
塩瀬総本家さんのHPから

 京都に、なんと660年の歴史を誇る和菓子屋さん、塩瀬総本家さんがあります。なんと貞治元年(西暦1362年)創業です。室町時代・南北朝時代です。京都です。

 全く京都のパワーというのはすごい。300年、500年以上でないと、京都では老舗と呼ばれません。何かがあるのですね不易流行(フリーダム)の。

 今宮神社の参道にある一文字和助などは、あぶりもちだけで、千年続いています。
 
 その塩瀬総本家さんの小寒のお菓子「此花(このはな)です。「梅の花の別名で紅梅、白梅を一つにしました。おめでたいお菓子」だそうです。

 此花は、梅や桜の花の雅称です。

 私は、梅の花が大好きです。梅園なんかにはよく行きます。このお菓子は、きんとん製でつぶあん入りです。

 さっきの私の話しは、違いますね。京都では、応仁の乱をくぐったお店だけを老舗と呼ぶのかも。


(以下、塩瀬総本家さんのHPからです)
塩瀬の歴史は、660年ほど前に遡ります。貞和5(1349)年、宋で修業を終えた龍山徳見禅師の帰国に際し、俗弟子だった一人の中国人が別れがたく随従して来朝しました。その人物が、塩瀬総本家の始祖・林淨因です。林淨因は暮らしの居を奈良に構え、お饅頭を作って売り出しました。これが、塩瀬の歴史の始まりです。

当時、禅宗寺院は宗教学問の場だけでなく、上流階級の社交場として使われていました。淨因のお饅頭は、肉食が許されない僧侶のために、小豆を煮つめ、甘葛の甘味と塩味を加えて餡を作り、これを皮に包んで蒸し上げたもので、その画期的な甘味は寺院に集う上流階級に大評判となりました。

その後、饅頭屋は、林淨因の子孫が受け継ぎ、奈良・林家と京都・林家に別れて営業することになります。

1467(応仁元)年の応仁の乱。応仁の乱は京都を焼け野原にしました。戦乱を避けて京都を離れた林家は、親戚関係であった豪族・塩瀬家を頼って三河国設楽郡塩瀬村(現・愛知県新城市)に住み、姓を「塩瀬」に改めました。

再び京都に移った塩瀬は大繁盛、塩瀬があった烏丸三条通り下ルのあたりは当時、饅頭屋町と呼ばれました。この頃、8代室町将軍の足利義政より「日本第一番本饅頭所林氏塩瀬」の看板を授かり、時の帝、後土御門天皇からは「五七の桐」の御紋を拝領しました。

それから100年後、時は"国盗り物語"の時代。塩瀬のお饅頭は、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康に愛好されます。関が原の戦いで勝利をおさめた徳川家康の江戸開府に時代を同じくして、京都での繁盛も続く中、塩瀬の源譽宋需という者が江戸に移り、商売を始めました。

塩瀬と家康との関わりは、天正3(1575)年の長篠の合戦にて、七代目林宗二が「本饅頭」を献上した頃から始まります。元和元(1615)年の大坂夏の陣、家康は大坂方の将・真田幸村に攻めたてられて、あやうく一命を落とす瀬戸際がありました。そのとき、わずかな手勢を引き連れ逃げ込んだところが、林浄因が居を構えていた林神社でした。戦いの後、家康は林神社に鎧一領を贈りました。

代々「塩瀬」を家号として製菓につとめ、明治初年からは宮内省御用を勤めることになりました。戦後は、ブライダルの引き菓子として、そして現在さまざまなデパートに出店し、全国の皆様から多大なるご愛顧をいただいております。長い歴史を誇る塩瀬の暖簾は、今日もなお熟練した菓子職人が技と心で伝えています。

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このページは、宝徳 健が2022年1月 4日 07:12に書いたブログ記事です。

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