道元の和歌15(皇紀弐千六百八十二年 令和四年一月三十日)

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 道元は、こう言います。「世間で言う言葉に、『私は黄金を売っているのに、人々が黄金を手に入れないのは、人が買わないからだ』というのがある。仏祖も道もこれを同じである。道を惜しんで与えないのではない、常に与えているのであるが、人がそれを手に入れないのである。私が仏道を得るということは、生まれつきのするどいとか鈍いとかによるものではない。誰でもめいめい法を悟るということは、生まれつき鋭いとか鈍いとなによるものではない。誰でもめいめい法を悟ることができるのである。ひたすら努力してやまないか、なまけているかによって、道を得るのに速い、遅いがある。またその努力するか、なまけるかの遠いは、志しが徹底するかしないかにかかるものである。志が徹底しないのは、無常と言うことをよく考えていないからである。われわれの身体は刻々に片はしから死んでいっている。どこまでいっても少しの一体な状態を保ってはいない。生きているわずかな間に、特をむなしく過ごしてはならない」

 とても、胸が痛くなります。その通りですね。

 仏道に励むことを「辨道 べんどう」と紹介しました。
 道元は、九月十八日、如浄から「仏祖正伝菩薩戒 ぶっそしょうでんぼさっかい」を受けています。和尚は、「曹洞宗の宗旨を託するところ、你(なんじ)すなわちその人なり」と言いました。

 如浄は、たくさんの弟子を抱えていました。しかし、如浄は、多くの門弟のなかから、仏祖の正法を継承する者として、自国の僧ではない、本の僧の道元を認証したのです。

 当時、南宋は、すでにモンゴルの侵略にさらされ始めている危機感がありました。如浄は、國が滅亡しても教えが遺るようにしたのかもしれません。 つづく

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このページは、宝徳 健が2022年1月30日 06:36に書いたブログ記事です。

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