源氏物語132(皇紀弐千六百八十一年 令和參年壱月六日 四)

| コメント(0) | トラックバック(0)
 今日から宗祇(そうぎ 1421年~1502年)の源氏物語観です。




 室町時代後半に生きた連歌師・古典学者です。貴族階級の生まれではなく、出身地も未詳です。

 素晴らしい功績を遺した方です。松尾芭蕉が、あこがれが人でもありました。芭蕉は、自分が生涯をかけて追い求める風雅(=俳諧)には、何人かの尊敬すべき先行者がいたと、「笈あ(おい)の小文(こぶみ)」の冒頭で告白しています。

「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通するものは、一なり」。

 西行が和歌の道で実践したもの、宗祇が連歌の道で追い求めたもの、雪舟が絵画の道で達成したこと、千利休が茶道で行ったこと、それらさまざまの芸道の本質は一つの理念で貫かれている。その理念を自分もまた俳諧の道で求めている、ということです。楽しみだなあ。人の追い求めた人生を知ることは最も勉強になります。今の時代は便利すぎて、人間がこういう努力をしなくなっています。

 さあ、学びます。

 本文です。




 第十九帖 薄雲の四つのポイントの内三つ目です。

 この年は、疫病が流行したり、不吉な前兆が現れたり、世間に忌まわしい噂が流れていました。

 藤壺の院の四十九日の法要がすぎたころ、一人の高僧が冷泉帝のもとに訪ねてきて、夜通し語り合いました。

 この高僧は七十歳ぐらいです。亡き藤壺の院の信頼が厚く、祈祷師としてずっと以前から仕えて宮中とのかかわりも深いのです。少し前まで山中に籠っていたのですが、藤壺の院の病気平癒の祈願のために下りてきたところを、引き続き参内して仕えるよう光源氏から請われていました

 冷泉帝は十四歳ですが、年齢よりずっと大人びて政事にもつつがなく当たっていました。

 二人が夜通し語り合い、周囲に控えるものがいなくなったときに、今回、帝と話す最重要な目的を話し始めました。

 さあ、ものすごい内容です。書くのが怖いぐらい。つづく

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/8638

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2021年1月 6日 10:11に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「白村江の戦い5(皇紀弐千六百八十一年 令和參年壱月六日 參)」です。

次のブログ記事は「もう一つの忠犬物語(皇紀弐千六百八十一年 令和參年壱月六日 五)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。