私の履歴書52(皇紀二千六百八十二年 令和四年六月二十四日 參)

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 大学一年生ですね。私は、おくてで、かつ、硬派を気取っていました。女性と付き合いたいと思っていましたが、付き合い方が全くわからない。流行にもうとい。これでは持てるわけがありません。

 親友のTJなどは、いろいろな女性と友達でした。あるとき、自分の車に乗せて、ICUのSさんと聖心女子大学のMさんを、私が住んでいる千葉県柏市まで連れてきてくれました。当時は常磐自動車道がありませんので東京からのたかだか近距離を車で来ると2時間から3時間かかってしまいます。

 TJの目的は、テニスを利用して二人と近しい関係になりたいのか、私に彼女を紹介したいのかわかりませんが(笑)。おそらく後者だったのでしょう。

 どうやったら女の子と仲良くなれるのだろうかとずっと考えていましたが、思いつかない。まあ、いいやと思いながら大学四年間を過ごしました。

 そんな中で一つの楽しみが、「旅」です。まだ、急行列車が走っていましたし、鈍行も豊富にありました(新幹線があまり整備されていなかったので)。
 一番楽しかったのは、夜11時45分に東京駅から発車する大垣行鈍行。今は、もうないんだろうなあ。それに乗って、大垣に着くのが次の日の朝の7時20分。そこから、なんとかという急行に乗って西明石まで生きます。博多に帰る時は、そこからまた鈍行列車に乗りついで20時間かけていきます。

 琵琶湖湖西に行きたい時は、大垣から電車に乗り継ぎます。

 瀬戸内地方や四国に行きたい時は、岡山あたりまで生きます。

 山陰に行きたい時は、大阪あたりでおります。

 時刻表と少しの着替えと本とバイトで稼いだお金を持って。お金が足りないときは、駅の待合室で寝たり、お寺に泊めて貰ったりしました。

 当時は、まだ、コンビニなんてありません。普通のお店も20時ぐらいにはしまっています。ですから、なにより大切なのが、自動販売機です。自動販売機では、一万円は絶対に使えません。500円札(当時は500円玉はなかったような)と50円も使えない自動販売機もありました。だから、極力、千円と100円玉を持つのです。今でもそのくせが抜けません(笑)。

 青春18きっぷはなかったので福岡-唐津ミニ周遊券を学割をきかせて買います(今もあるのかな?)。博多まで12,000円で乗り放題(博多に行くときは)。そのたいろいろな周遊券がありました。

 出かけようとすると亡母が「どこに行くの?」と聞いてきます。「わからない。足の向くまま気の向くままの旅に出る(本当にそうでした)」と答えます。亡母は「ふ~ん」という返事をします。途中の連絡なんで携帯もない頃ですから、よほどのことがないとしません。心配だったのでしょうが、当時の母親とは男の子をたくましく育てるという意志がありました。

 今だったら大変なことになりますが。まあ、今はラインとかがありますから。

 少し、次回からは、そんな旅を具体的に振り返ってみますかね。

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このページは、宝徳 健が2022年6月24日 06:20に書いたブログ記事です。

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