我が社の二十一回目の創業節と母の命日(皇紀弐千六百八十二年 令和四年七月十日 弐)

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 今日は、我が社の二十一回目の創業節です。数年前から我が社、創業記念日という言葉を止めています。「日」と「節」とでは、全く意味を違えるのが我が國 日本文化で。

 例えば、「天皇誕生日」というと、今上天皇陛下の誕生日を祝う日になります。そんなことをしても陛下はお慶びになられません。

 陛下は、「ああ、また、今年も、私の御代に歴史が続いた。なんと素晴らしいことか」と、ご自分の事ではなく、世界で唯一歴史が連続した人間社会の奇跡の國 日本の事を喜ばれるのです。

 日本人は、元来、この「節」が大好きでした。また、今年も、節目を迎えられるという。

 母の話しは今まで、このブログに書いてきました。たまらなく厳しく、そして、たまらなく私を愛してくれた人でした。

 マザコンと言われるかもしれませんが、そんな生易しいものではない。北朝鮮から敗戦後引き揚げてきました。毎年、敗戦屈辱日になるとその話を聞かされました。

 もう二十七年。母は全身リウマチでした。最初にかかった医者がでたらめで間違った治療をし、軽い症状ですんだ病氣なのに全身がガタガタになりました。ほぼ全身が人工関節になりました(最終的に)。

 それでも、「痛い」と云う言葉をほとんど聞いたことがないですし、自分から寝たきりにならないように、家事は買い物も含めすべて自分でややっていました。寝ている姿も晩年に、すさまじく病気が悪化したときしか見たことがありませんでした。「お母さんは、いったいいつ寝ているんだろう」といつも思っていました。
 あまりにもつらうそうなので、見かねて家事を手伝おとしたら、「これは私の仕事! あなたは男でしょう! 他にやることがいくらでもあるはずです!」と怒られました。

 母の命日を創業記念日にしているのはあの「負けない強さ」を毎年思ひ出すためです。母はもう治らない病ひだったのです。つまり、自分の身体に勝てない状況です。毎朝起きても起きても絶望的な自分の身体がある。それに負けない。

 正しい敗戦前教育を受けた人間とは、なんと強いのでしょう。

 母は、中学の時、トップの成績でした。地域で一番の高校に進学する予定でしたが、受験日当日、祖父母が母を呼びました。「お金がないから合格しても行かせてあげられない。今日は受けないでくれ」。

 なかなか受験に来ない母を學校の先生が迎へにきます。「秋武(母の舊姓)! 今ならまだ間に合ふ!先生が自転車の後ろの乗せていくから、早く来い!」 祖母「汎子はでかけておりません」。

 母は、見つからないように風呂桶に隠れて、声を押し殺してワンワンないていたそうです。

 心臓の手術をしました。交通事故にも遭いました。でも、私は死にませんでした。母がまだ私の人生に合格点をつけてくれないのです。「まだまだね。まだ負けない強さを身体につけていないね。こちらにくる資格なし。もつときちんと生きなさい! 言い訳をするな!」と。

 (笑)毎年怒られてら~。

 さてと、前進しますか。精進を重ねますか。

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このページは、宝徳 健が2022年7月10日 06:39に書いたブログ記事です。

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