サンフランシスコ講和条約(皇紀二千六百八十一年 令和三年九月八日 弐)

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 今朝の産経新聞に良い記事が載ってましたね。産經は、記事に良いものとあまりよくないもののばらつきがある。終戦を「記念日」とするならなぜ、独立した日を尊ばない。産經以外の新聞は書いていません。

 国際法上、戦争は、講和条約で、チャラになる。お互いに。だから、日本は何も責められない。では、困るのでできたのがUNです。国際連合は外務省が勝手に訳した言葉です。「連合軍」です。

 今日は、サンフランシスコ講和条約調印日です。昭和二十六年九月八日。発効は、昭和二十七年四月二十八日。

 この七十年、どんどんひどくなりますね。敗戦利得者が負けじと奮闘しています(笑)。
 単独講和か全面講和かでもめました

 朝日新聞と東大総長の南原繁は全面講和を主張しました。ソ連をいれろというのです。丸山眞男も。吉田茂は叫びます。「曲学阿世の徒だ」と。つまり、世論に慮るだけの無能人間だという意味です。

 吉田茂の決断が正しかったことはわかります。これがリーダーです。

 サンフランシスコ講和条約第十一条に、「東京裁判を受け容れろ」と書いてあります。つまり、戦犯を認めろです。でも、同条二項に、「でも、条約締結後、一つ又は二つの國が了承したら、一項は消滅させてもいいよ」と書いてあります。

 まだまともな感覚が残っていた我が國は、すぐに、サンフランシスコ講和条約締結國に通達し、これを行つてゐます。まず、この時点で戦犯と呼ばれる、リンチのような東京裁判の判決は消滅しています。我が國は、サンフランシスコ講和条約で独立しました。東京裁判を受け入れて独立したのではありません。

 昭和二十六年九月八日に調印され、翌年四月二十八日に発行したのがサンフランシスコ講和条約です。我が國は沖縄と奄美と北方領土を除いて主權を回復し、独立しました。

 その時、戦犯を救おうといふ署名活動が始まり、瞬く間に当時の我が國臣民の有権者に相当する四千万人の署名が集まりました。

 國會でも、社会党の堤ツルヨ議員の発議で改正遺族援護法が全会一致で可決されてゐます。社会党ですよ。全会一致ですよ。

 さらに、昭和二十七年六月九日の参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」が可決され、十二月九日の衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の赦免に關する決議」、昭和三十年七月十九日の衆議院本会議で「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」がそれぞれ、社会党、共産党も含めた全会一致で可決されています。

 俗にいう戦犯であった重光葵は、國連(この呼び方も間違つています。連合軍です。敗戦國を見張る機関が、我が國で俗に呼ばれてゐる國連です。United Naitons:連合軍です)で、「東西の架け橋となる」と演説し、満場の拍手に包まれました。

 いまだに東京裁判を受け入れて独立したと勘違いしている人のなんとおおいことか。政治家にも官僚にもメディアにも國民にも。なんとなさけない。

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このページは、宝徳 健が2021年9月 8日 06:48に書いたブログ記事です。

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