シラス(皇紀弐千六百八十四年 令和六年(2024年)三月十三日)

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 江戸期から明治期にかけて井上毅という天才かつ(我國を精神面で救った)英雄がいました。
井上毅|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館 さん

 国立国会図書館より

 天保十四年(1844年)〜明治28年(1895年)3月17日


父は熊本藩士。明治4(1871)年司法省に出仕、5年渡欧し翌年帰国。7年大久保利通の清国派遣に随行。以降、岩倉具視、伊藤博文、の命で、各種の重要政策を立案しました。14年プロシア憲法に基づく欽定憲法構想立案や国会開設の勅諭を起草、新設の参事院議官となり、帝国憲法の起草にあたったりました。21年枢密院書記官長として、憲法制定会議の司会を務めました。23年枢密顧問官となり、教育勅語を起草。26年第2次伊藤博文内閣の文相に就任しました。(国立国会図書館より)。

 かれは第日本帝國憲法草案制定にあたって、我國の歴史・文明・文化を徹底的に研究しました。そうです、憲法とはその國の歴史・文明・文化・慣習なのです。権力を縛るのが憲法など、フランスの在り方を真似たものではありません。
 そして、我國の國体

シラス

を見つけました。

 私は、大祓詞(おおはらへのことば)を毎朝、暗誦しています。日本の建国の理念が簡潔に書いてある祝詞です。

 35年前に出光興産株式会社で店主室教育を受けた時に二週間宗像大社で修行をしました。その時に宗像大社からいただいたものです。中に大祓詞が書いてあります。当時の出光興産株式会社は三十歳前後の社員に店主室教育を受けさせました。なんと40日間も。そして、その強雨行くの中で仕事の話をすると「仕事の話をするな!」「些事をいうな!」と叱られました。

 出光興産株式会社の事業目的は「立派なに日本人を育てること」だったからです(これはいずれまた)。

 この大祓詞の中に「我(あ)が皇御孫命(すめみまのみこと:瓊瓊杵尊です)は、豊葦原水穂國(とよあしはらのみずほのくに:日本のことです)を安國と平(たいら)けく知ろし食(め)せと」という言葉が2回出てきます。

 我國の國体はこの「知ろしめせ」なのです。これが我國の國体「シラス」なのです。この國体は過去のどの書物にも書いてあるのを

井上毅が発見しました

 日本人に自然と身についたものなので、それまでは改めて口に出すものではありませんでしたが、明治期に日本という國家が自立するためには、再度、國体とい理念を確認する必要がありました。

 なので、井上毅が草案した第日本帝國憲法第一条は

大日本帝國は萬世一系の天皇が之を治(しら)す所也り

でした。なんとわかりやすい國のあり方でしょうか!!!

 実際には最後の部分が「之を統治す」となりましたが。


 シラスとは何か。支配することをウシハクといいます。支配者がすべての土地・建物・食物・人間などを所有物とすることです。皇室はそれを嫌いました。支配などするな「統治(知らしめす)をして征服ではなく平定しろ」と。そして私たち臣民のことを「おほみたから(大御宝)」と言って、最も大切な宝物としました。そして公土地公民としました。欧米や支那やロシアは私地私民でした。

 世界で唯一かつ最古の君民國家が太古の昔から成立し、そして、世界で唯一歴史が連続した人間社会の奇跡の國となりました。


 このシラスを井上毅が見つけてくれなければ、我國はもっと違った國になっていました。

 偉人とは偉業をなしとげた人です。英雄とは國を救った人です。井上毅は日本精神を救ってくれた人物です。そして、シラスこそが我國の國体です。

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このページは、宝徳 健が2024年3月13日 06:15に書いたブログ記事です。

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