和歌と国創り3(皇紀弐千六百八十四年 令和六年(2024年)三月八日)2

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磐代(いわしろ)の 浜松が枝を 引き結び 眞幸(まさき)くあらば 亦かへり見む

家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎(しひ)の葉に盛る

 髙校時代、この二つの歌は、なぜか、すぐ頭に入り、そして、今も覚えてゐます。

 我が國の國體は「シラス」でも、欲望に渦巻く人間社會で、この國體を實現するためには、筆舌に盡しがたい困難を乘りきらなければなりませんでした。

 大國主命が支那勢力から我が國を護ったとき、そして、その大國主命さえ、シラスを忘れてウシハクに走り、天孫降臨によりシラスに移行する國譲りのとき、そして、この大化の改新・・・。そのたびに犠牲(?)になる人間が出てきました。とてもつらいことですね。一切の利権を排しシラスを実現する側と、それまでの利権を護ろうとする側。どちらも悪くありません。だつて、他國では、後者の方が当たりまえなのですから。

 先の和歌は、有馬皇子(ありまのみこ)の歌です。

 ああ、この光景をまた観たいものだが、無理だらうなあ。家でご飯を食べる時は器に盛るが、ここでは椎の葉か~。

 つづく

  657年、孝徳天皇の皇子、有馬皇子がの謀反がありました。孝徳天皇の時代には、政権の実質は、皇太子 中大兄皇子、中臣鎌足の手中にあり、阿部倉梯麻呂と蘇我石川麻呂の相次ぐ死によつて、天皇は次第に政治的に孤立していきました。

 晩年は、そういう孤独の中で崩御されました。

 舒明―皇極という政治勢力から完全に疎外されたことになります。

 有馬皇子の謀反にはそういう父の無念をはらさうという思いがありました。有馬皇子は、蘇我赤兄(あかえ)の挑発に乗って反逆を試み、中江大兄皇子によつて紀伊で絞殺されました。歌は有馬皇子辞世です。

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このページは、宝徳 健が2024年3月 8日 06:48に書いたブログ記事です。

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