和歌と國創り7(皇紀弐千六百八十四年 令和6年(2024年)三月十二日

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 白雲の よそに求むな 世の人の まことのみちぞ しきしまのみち

さまざまの 世のたしなみも ことのはの みちのうへには たつものぞなき

 両首とも、明治天皇の御製です。

 今日は、天智天皇と大海人皇子の話から少し離れて、聖德太子の話を。
 聖德太子は、日本人のふむべき道として大乗の道をお示しになって、実人生と真実との関係をお述べになられています。

「凡夫は常を計するが故に世を樂(ねが)ひて厭離(おんり)せず。二乘は無常を觀ずるが故に世を厭ひて物を化せず。皆佛の意に違ひ、倶(とも)に中道を失す。菩薩は無常を觀ずるが故に能(よ)く存著せず、厭離せざるが故に能く生死に留まって廣く衆生を化し、二乘凡夫の偏に同じからずして妙に中道を得」

 凡夫とは一般の人です。一般民衆は日常生活のために働いて、それをはかないことを思わないので、人生の快楽を追うのみに急で、人生を超越しようとしない。「二乗」は仏教用語です。ほんの少し、修行した人とでも言っておきませしょうか。その人たちは、人生のはなかないことを思いますが、自己一体の救いのみを求めて仏の周辺に集まります。また一体のみを求めて学問問をします。一般民衆や二乗はらの「小乗」の人たちは、自己に固執して民衆を教化することはしません。凡夫も二乗も倶(とも)に、仏の真意にかないません。

 これに対して菩薩は、実人生に執着して快楽を追うのみでなく、すべての人とともに実人生を生き抜きつつ人生の永遠の意味を求める道をゆくこと(限られた実人生に永遠の意味を求めて生きること)を追い求めています。

 この聖德太子の思ひを歌に込めたのが、冒頭の明治天皇の御製です。

 和歌とはなんともすごいものです。あの激動の明治期。國の存亡がかかった明治期。大帝は、我が國をお導きあそばしました。 言葉になりません。

【今日の和歌】
大帝の 命をかけた 國創り 今の我らは 流行にのみ

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このページは、宝徳 健が2024年3月12日 05:29に書いたブログ記事です。

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