母から叔母への命の手紙6通目(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)二月十一日)

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 今日の手紙を紹介します。昭和三十八年(1963年)十二月五日に母から叔母(洋子)に宛てた手紙です。妹(幸)は生まれていままだ生まれる前です。ハガキ代は五円です。祖父が初めて大阪に来られました。父は椎間板ヘルニアで入院しています。元々、貧しい家だったのですが、この父の入院からさらに貧しくなりました。でも、母は貧しさを子供達に見せたことはありませんでした。幸い母は裁縫や編み物ができたたので、内職で生計を立てていました。昔の女性は、裁縫もできました。私の服などは、買ったことがなく、すべて父のお下がりでした。二件つづきの市営住宅に住んでいました。祖父が遊びにきています。この時のことは覚えています。祖父にグローブをおねだりしています。それも「子供のグルーブではなく大人のグローブだよ!」とお願いしました。祖父は若い時、大病をしてどっちだっけな、片方の目が義眼でした。祖父が寝ていても義眼の方だけ目が空いたままです。少し怖かった。

 北朝鮮から引き揚げてくるときに、「日本に帰る船を準備してやる」と朝鮮人に騙されてお金だけとられました。その時、祖父は朝鮮人に銃を突きつけられたそうです。伯父は戦争に行っていましたから、祖父以外はすべて女です。母が怖くて泣いていると、祖父が「泣くな!!!」と言ったそうです。さすが祖父は知っていますね。支那人や朝鮮人には絶対弱みを見せてはいけません。虐げられて生きていきた民族は強い相手には従いますが、弱い相手にはとことん強くでます。

 母はその時「お父さん(祖父)は何てすごいんだろう」と思ったそうです。

 いいおじいちゃんでした。晩年も一人で泳ぎに行ったりしていました。住んでいるのは福岡県遠賀郡芦屋町です。海がすぐ近くです。後に、芦屋町に住みことになる私も、家から海パンを履いたまま海に泳ぎに行っていました。危険なのですが、監視員もいますし、みんなそうでした。

 高度経済成長はまだ始まったばかりです。そのとき、池田勇人総理大臣がいなければ一体日本はどうなっていたのでしょう。では、母から叔母(洋子)への手紙をご覧ください。まだ新幹線がない頃です。新幹線ができるのは次の年の十月です(東京オリンピック)。まだ母の病気は発症していません。
「一日の朝、元気なお父様(祖父)がいらして子供達は大よろこび。おじいちゃんにおねだりしたり、相撲をとったりにぎやかなこと。子供たちにとっては、はじめて大阪に来てくださったおじいちゃんなのでうれしくてたまらないのでせうね。三日第一つばめ号(特急)で東京に発ちました。つき添いがないので少々心配ですが仕方がありません。六日までには大阪へ帰ってきてくれるそうです。七日がひとみちゃんのお誕生日ですから・・・。ぱぱの入院で私達の生活もお先真っ暗なので、折角いらしたおじいちゃんにもなにひとつしてあげられないのが残念です。東京から帰ってくるまで心配で仕事が手につきません。みなさまによろくね。ひろこ」






 母の中学校卒業時の寄せ書きです。お袋、鈴木秀子さんだよ。


 みなさん本当に字がきれいで教養があります。

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このページは、宝徳 健が2025年2月11日 01:28に書いたブログ記事です。

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