これを書き終えると平成二十一年(2005年)九月二十日に始めたブログがもうすぐ累計記事1万件になります。あと2通です。
このホームページジをお読みになると私の今の仕事がよくわかります。
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中学生の頃、映画を観るのが好きになったのですが、今のようにいろいろな手段で見られる時代ではなく、小遣いも少なかったので、観られる映画が少なかったです。大人になったら、うんと映画を観てやる! と思いました。かつての映画館は、フィルム映画でした。
ジジージジーと音を立てながら映画館の後ろの方から光と共に放映されます。
時々、フィルムが切れて映画が放映できないこともありました。1980年代の映画料金は1,500円ぐらいのものだったかなあ。子供としては高い料金です。また、一本立て、三本立てという言葉があり、一本立てとはその映画ひとつだけ、三本立てとは三種類の映画が観られます。映画と映画の間は、テープを交換するので、結構時間があります。その間に、駅弁(といってもわからないかな)のように、首から上がからになった広い箱をぶら下げて食べ物を売りに来るのです。こんな感じで。今では信じられませんよね笑。
ちなみにこの駅弁のおじさんが持っているのは、私が一番好物な北九州折尾駅の東筑軒のかしわめしです。今でも、福岡県に行ったら必ず買います。それが、政府の減反政策の誤りでコメ価格が高騰し、仕方がなく東筑軒さんは、米を麦にしているそうです。それでも食べたいな。話を戻します。
幕間の時間に売りに来るおじさんが持っているもので、一番安かったのは「たこ焼き」です。美味しかったなあ。だから今でも一番好きな食べ物はたこ焼きです。
また、中学生時代は、私は、福岡県遠賀郡芦屋町という「ど不良」と「ヤクザの街」に住んでいました。映画に行くのは北九州黒崎に観に行きます。これも良質な(皮肉)の不良がたくさんいて笑、油断しているとすぐカツアゲに遭います。
まあ、そんな話はまた今度にして映画の話を。レッド・サンというアメリカ映画がありました。
主演は、我國日本が誇る大スター三船敏郎とアメリカ人のチャールズ・ブロンソンとフランス人アラン・ドロンです。豪華なキャストです。
1870年、アメリカ西部の大平原での話です。日米修好通商条約の任務を帯びた日本大使の一行が、特別列車に乗ってワシントンを目指していました。でも強盗に襲われて献上品として持っていた宝刀を奪われてしまいます。それを奪い返しに行く三船敏郎演じる 黒田重兵衛にアメリカ人リンク(チャールズ・ブロンソン。日本では男性化粧品マンダムのCMで当時は有名だった)は・・・。さあ、結論やいかに。
なんでこんなことを覚えているのだろう笑。
一番覚えているのは二人の昼飯のシーンです。だけど、なんでレッド・サンという名前かわ知りません。確か、カクテルの名前ですよね。それがなぜ、映画のタイトルに。誰かご存知でしたら教えてください。アメリカの広い草原に沈む赤い太陽なのかなあ。
土手に座って二人は昼飯を喰います。リンクは金属製の水筒に入れたウィスキー(アメリカなのでおそらくバーボン)。黒田重兵衛は、おむすびと沢庵です。ひとつどうだという黒田から、リンクは沢庵をまず食べます。でも、こんな臭いものが食えるかという顔で食べませんでした。おむすびは、「うん、これはうまい」という顔をして食べました。
「そうか〜。あんなに美味い沢庵が嫌いなんだあ。おむすびは好きなんだあ」と中学生らしく思いました。
なんでブログを書く時こんなことを思い出したんだろう笑。
でも、今は、令和です。私たちは昭和世代。私たちからすれば三代前とうのは明治です。令和の人たちも、私たちをそういう目で見ているのかなあ。まあ、昭和世代は、明治の男たちからすれば情けない姿ですが。敗戦をそのまま引きずって誤った国体が今だに正しくなりません。
まあ、そんな「近い歴史」を振り返り、「へー、そうだったんだ」と思っていただければ。娯楽の少ない時代でした。お金もない時代でした。だから、外で遊んだり部活をしたりするのが当たり前の時代でした。そんな時代に少しだけ贅沢な娯楽が映画でした。映画館で買ったパンフレットを観ながら必死で映画を観ました。
ブルースリーの「燃えよドラゴン」とか「小さな恋のメロディ」とかを観ました。小さな恋のメロデイのトレーシー・ハイド、マークレスター、ジャック・ダニエルは今どうているのだろう。トレーシー・ハイドは可愛かったなあ。
数日後にこの画像は消します。
十代の 多感な頃に 観た映画 時間を経ても 記憶は消えず
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