三振(みふり)の思ひ出:最終回(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)四月二十七日 日曜日)

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平成二十一年(2005年)九月二十日に開始したブログ累計記事 現在10039通目です(後で数えなくていいように)
このホームページジをお読みになると私の今の仕事がよくわかります。

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   昨日の歩数は1002歩です。1,002歩/60分。167歩/分です。だいたいこれで歩けるようになりました。

  以前にも申し上げましたが、私は、静岡県駿東郡裾野町(現 静岡県裾野市)という至極平和な自然たっぷりになところに小学校三年生二学期から小学校五年生いっぱいまでいました。自然と腹一杯戯れるという生活でした。ここの小学校の生徒はみんな頭もよく(知識ということではない)、みんなとても創造性が豊かでした。世界の大数学者の藤原正彦先生がおっしゃっています。「世界的な大数学者は必ず小さい時に情緒豊かな土地で育っている」と。

 そして、まだ日本がそんなに豊かではない頃ですから、遊ぶものはほとんど手作りでした。富士山の裾野ですから冬はよく雪が降ります。すると、自分たちで小さなゲレンデを作ります。スキー板は縦に半分に切った竹に小さな穴を開けて作りました。スティクはその辺に落ちている棒です。なつかしいなあ。弓矢なんかも作りました。釣竿も一部は自作です。おやつは山に入って、山葡萄や山いちごやアケビやウベをとって食べました。栗などは1日山に取りに行ったら500個ぐらいはとっていました。猪に追いかけられたりもしましたが笑。柿は隣の大家さんの家に立派な柿の木(栗の木も)があって、それが秋にぼとんぼとんと音を立てて落ちてきます。大谷さんには好きにとっていいと言われていましたから、大きな柿と栗が・・・・。

 春になると、つくしはもちろん、ゼンマイ・こごみ・蕨などがふんだんにとれました。

 夏には、網戸の隙間から(蛾とかも入ってきますが)クワガタやカブトムシが飛び込んできます。

 蛇もいましたが青大将なので怖くはありませんでした。楽しかったなあ。父の仕事も、当時では最もうまく行っていました。部下の面倒見がよい父は、部下にいつでも家に遊びに来いと言っていました。父がいない時でも夜になると10人はくだらない部下の人たちが飲みにきていました。母は大変です。「お父さんの友達がくるから早く宿題を片付けなさい!」が母の口癖になっていました笑。

 一方で母の病気は悪化の一途をたどります。その原因は以前に書きましたので割愛します。あまり言いたくないことなので。このままでは自分は命を落とすと思った母は父に「子供たちをつれて九州帰ります。死ぬなら九州で死にます」と言います。母がこうなった原因を知らなかった(気が付かなかった)父は、びっくりします。あの仕事が好調な時に父は「家族と離れて生活することは考えられない。子供達と離れて暮らすことはできない」と会社を辞めて一緒に九州に行くことを決心します。子供達も母から直接このことを聞きました。あの、いつも明るい笑顔の母の涙をこのとき初めてみました。

  父は、母の病気の原因の一端である祖母にその事を伝えました。祖母の狼狽狼狽ぶりは今でも覚えています。という経緯で福岡県遠賀郡芦屋町に引っ越すことになりました。
  芦屋小学校に転校しました。六年生です。最初の国語の時間の時です。学校の先生が「大人になったら何になりますか?」という質問を言葉に書きます。順番に聞いていってある生徒の番になった時のことです。「日本一の極道になります」と言いました。平和な世界で生きてきた私は「びっくり」しました笑。

 家に帰りました。遠賀郡芦屋町には「草野組」と言って北九州の有名な工藤会と同等かそれ以上の組があります。草野組の組長の娘さんが、姉と同じクラスでした。転校した初日に姉がその娘さんに「お父さんは何をされているのですか?」と聞くと、「今、お勤めに行っているの」と言いました。姉が家に帰ってきて父に「お勤めって何?」って聞きました。そうです。刑務所(それも当時の宮崎刑務所です)に入っているのです。
 
 というような学校でした。芦屋中学になるともっとひどい状況でした。ただし、今の子供達がやっているような武器でとかを使って大勢で一人をいじめるようなことはありませんでした。基本はステゴロのタイマン(素手の一対一)です。

  でも、それまで平和に過ごしていた私は、ステゴロでのタイマンでもやる術を知りません。毎日が、恐怖とリスクの連続です。冬は掛け布団を剥いで寝ていました。風邪をひけば学校に行かずにすむと思ったのです。
 
 でも、三年間こんな状態でいけるわけがありません。不良たちに顔が効く新聞販売店の親父さんがいるところで新聞配達をしました。これも不良がたくさんいる少年野球に入りました。このチームには芦屋中学だけではなく、地域に睨みがきくOくんがいました。芦屋中学の生徒が他校の中学生にやられると仕返しに行っていました。今まででこのOくんよりも喧嘩が強い人をみたことがありません。というかそのオーラは喧嘩なんか売れるようなものではなかったのです。何より優しいのです。私はこの人にとても可愛がってもらいました。

 テニス部にも入りました。この部にもそれなりの先輩たちがいました。

 そうです。腕力で劣る私は、政治力・外交力で自分の身をまず守ったのです。

 でも、最低限の武力は絶対にないと不良たちに認められません。

 だから一振り(ひとふり)目の木刀を新聞配達でもらったお金で質屋で買いました。剣道の有段者だった父に素振りの仕方を教えてもらいました。真面目に振ると結構しんどいのです。100回/日降りました。

  おかげで懸垂一つ満足にできなかった私は中学卒業の頃には「蹴上がり」ができるようになっていました。
  
 誤解を恐れず言います。「いじめはなくなりせん」。「いじめられたくなかったら自分で対策を打つしかないのです」。それは腕力だけとは限りません。政治力だって外交力だっていろいろあります。いじめが続くのは何も対策を打たずにいる本人が悪いのです。だけど喧嘩と暴力の違いもわからない大人たちが言う「喧嘩をしてはいけません」という教えは子供からその知恵を奪います。嫌なら、今の勉強嫌い育成所である学校なんか行かなければいい。

 このことを覚えている私は、社会人になって二振(ふたふり)目の木刀をどこの神社かは失念しましたが、買いました。そして、三振(みふり)目を武の神様 鹿島神宮で求めました。この木刀は置いているだけで、家の守り神になります。

<後日談>
❶姉が中学校の同窓会に行きました。その夜に私に電話がありました。「今日、同窓会に行ったらくさ、みんなが『宝徳、弟はどげんしよっとか?』げな言いよったばい。会いたがっとったばい」「ばってんみんなヤクザになとっちゃろ」「心配いらんっちゃ。もう、みんな足ば洗っとるけん」。どんな会話や笑。でも、姉は不良たちに人気がありました。それで助かったことも結構ありました。弱い兄貴よりもてる姉貴です。

❷私は、福岡高校に入った時に3番で合格したそうです。二者面談に行った母が担任の先生から教えてもらったそうです。でも、担任の先生が「宝徳くんは部活も懸命にやっているし授業を受ける態度もとてもいいですが、なぜ、内申書がこんなに悪いんですか?」と聞かれたそうです。

  中学時代の担任は福岡県教職員組合バリバリの闘士です。私はこの担任に逆らいまくりました。あるとき、その担任が背広の胸に「スト権スト奪回」というワッペンを貼っていました。頭に来た私は、次の日学生服に10個ぐらいのワッペンを貼って登校しました。Sという担任です。そうしたらSが「宝徳、なんばしよとっか、そのワッペンばすぐとれ」と言いました。

 「先生方が全員そのワッペンをとったら私もとりますよ」と言ったらSは黙ってしまいました。またある日、私たちの時代の番長Eくんが、「宝徳、高校だけは出たいけん、勉強ばおしえちゃりやい」と言ってきました。E君も喧嘩は抜群に強かった。柔道をやっていました。おそらくタイマンの喧嘩で一番強いのは柔道でしょう。

  俗に言う不良10人ぐらいに教えました。もともと地頭がいいのですぐに成績があがりました。たまたま私が職員室にいる時に福岡県教職員組合の先生たちの話が聞こえてきました。「あいつらカンニングしたとやないか」という。私の頭は怒りでちんちんになりました。「普段は偉そうに言っとるとにそれが先公のやり方か!生徒を信じられんで恥ずかしくなかとか!!!!」とやりました。こんなことは枚挙にいとまがありません。なので、私の内申書は最悪でした。と思います。知らんけど笑。

❸後日、姉がそのSと電車の中で会いました。「おう、宝徳やないか。お前の弟は今どげんしよっとか?」
「S先生お久しぶりです。弟は今、慶應義塾大学に行っています」と姉が言うと「見栄ばはらんでいいけん、本当のことばいうてんやい。あいつが慶応やらけるはずがなかろうが」とSは言ったそうです。私の人生をむちゃくちゃしてやろうと、Sは内申書にボロクソ書いたのでしょうね笑。

❹あるとき、高校の帰りに「吉塚」という最寄りの駅で帰りの電車を待っていました。そこにすごいヤクザ軍団がきました。なんとOくんとその一味です笑。Oくんは最初私だと気づきませんでした。

「おお、お前なんや、男のくせに女みたいテニスばして」と粉をかけてきました。私はすぐに気づきました。

 その一味の中に、私より一個下のTくんが、兄貴たちと一緒に混ざっていました。Tくんはなぜか知らないけど、中学時代から私のことを慕ってくれていつも「宝徳さん、宝徳さん」と言ってくれました。彼も私もすぐにお互いに気づき、彼がお兄さんとO君に言ってくれました。「お兄ちゃん、Oさん、ほら、宝徳さんやん」と。するとO君は、「おお、宝徳か〜、久しぶりやなあ。姉ちゃん元気か! うんうん、テニスはたくましか男のスポーツや(どっちやねん笑)」と言いました。「おっ、お前よかもんもっとるね」と私が持っている少年ジャンプに目をつけました。その少年ジャンプだけ「カツアゲ(笑)」されました。

 まあ、こんなことで若い時代を乗り切りました。三振(みふり)の思ひ出です。

一線を 超えたことは ないけれど 結構楽しい ガキの世界か

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このページは、宝徳 健が2025年4月27日 02:52に書いたブログ記事です。

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