平成二十一年(2005年)九月二十日に開始したブログ累計記事 現在10060通目です(後で数えなくていいように)
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亡父がシベリアに拉致された亡くなった祖父の生誕百二十年歳で書いた兄弟姉宛の記事を健が編集しています。さて、寳德家の没落の始まりです笑。
上級学校は、農林水産省(現 東京水産大学)を目指していたが、北海道との交易をしていた船が一度に4隻も沈んでしまいました。寳德家は没落(?)したので、進学(受験)ができなくなり、失望のあまり寄宿舎の塀を乗り越えて脱走?したこともあったと聞いています。
父の書簡には、「高等文官(高文:こうぶん)試験問題集」(公務員上級職試験)がずらりとならんでいました。上級学校に行けないための勉強だったのです。今の世は学歴社会と言いますが、学歴偏重は当時の方がひどかったのです。(旧制)中学校(5年制-中・商・工・農・水産・商船など)を卒た(へた)者と、高等・専門学校、大学を出た者とは、いまよりひどいものがありました。
高文(高等文官試験)の目的を果たすことができませんでしたが、子供の眼からみても頭の切れる男でした。朝鮮総督府咸鏡南道技手とありますが、ここまで来るのには大変な努力が要ります。かみ砕いて言いますと、地方の役人が中央官庁のお役人になったといういことです。
でも、中卒(旧制:今の高校卒)では技師になれないのです。歴然とした学歴偏重がありました。咸南漁聯に転じたのは、佳男を内地の上級学校に行かせるための布石(恩給がつき、魚聯からの報酬もある)と聞きますが、別の理由あったのではないでしょうか?
お酒は一流に飲みました。家でも外でも飲んでいましたが、気の毒なのはお母さんです。いつ誰か来ないかと待っているのでしょう。小さなお皿にいくつもの料理並べてチビリチビリとやる。当時の妻は夫が酒を飲み終わらないと食事をすることができません。
(ここからは私 健が書いています)
私は祖父の思い出はまったくありませんが、父がよく話してくれました。祖母は一緒に住んでいましたが、祖父の話は一切しませんでした。結婚してすぐに朝鮮に言って、寂しい中を亭主は飲んだくれときからそうかもしれませんね(笑)。祖父は大きな北前船の商いをしている家のボンボンです(長男)。家が没落するまでは、かなり裕福な生活をしていたそうです。
福井県丹生郡越前町玉川は、かつては、路線バス1台がやっと通る道しかなかったそうです。崖に落ちそうになりながら。これはお袋が話してくれました。結婚してすぐの時に玉川まだで行ったら「なんていう田舎なんだろう」と思ったそうです。
私が法事でいったときは、海に近い道から一望できる山はすべて寳德の家の土地だったそうです。戦争が終わってから全部他人に持っていかれました(と聞いています)。まだ18歳の父にはそういうことがわからなかったみたいです。
敗戦後、祖母と兄弟姉は、玉川で集まり、それぞれ別の生き方をしようと決めました(父と次男の正是(まさよし)は祖母を連れて大阪)。苦しくて苦しくて、バッタ屋のようなこともして、それでもお金がたまらなくて叔父の、正是と道端で泣いたそうです。腹が減って腹が減って、あげまんじゅう(あんドーナツ)を食べている人間から奪ってやろうと付け回したこともあったそうです。母と結婚して初めて食堂に入った時は、いくら取られるかと思い身震いがしたと言っていました。
私たちが子供の頃も、食堂に行っても、頼んでいいのはうどんだけです笑。お子様ランチなんて食ったことがありませんでした。それでも母は、父の末弟の叔父(治)と私たち子供には、ひもじい思いはさせませんでした。叔父(治)は、生前、いつも「健、姉さんには言葉に尽くせないぐらい世話になってなあ」といつも言っていました。叔父はまだ中学生でした。遊んでくれない父に変わってよく遊んでもらいました。キャッチボールも将棋も叔父から習いました。
でも、母のとびっきりの笑顔が中心になって家族みんな笑っていて、子供心に幸せだったなあ。病気になる前まで母が寝ている姿を見たことがありませんでした。「お母さんは、いったいいつ寝てるんだろう?」といつも思っていました。
とびきりの 母の笑顔が いつもある たったそれだけ うんとそれだけ
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