平成二十一年(2005年)九月二十日に開始したブログ累計記事 現在100127通目です(後で数えなくていいように)
このホームページをお読みになると私の今の仕事がよくわかります。
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母が叔母(洋子、以下洋子姉ちゃん)に出した手紙を洋子姉ちゃんがとっていてくれました。洋子姉ちゃんは終活だとかいっていろいろ整理しているらしいのですが、その手紙を捨てるに捨てられず、私に扱いを任せてきました。
私の時々、祖先のこと(特に母方のはあまり聞かされていなかった)を知ったり、振り返ったりしています。命が繋がれた歴史は、私の人生の歴史であり、そして、たまに日本の歴史ともつながることがあります。こういう手紙なんかが遺っているのはいいですね。祖先を祀るということは自分のためなんですね。
今日の手紙は、平成三年(1966年)二月十二日です。この頃、母はかなり病状が重くなっていました。ご飯が食べられない日が続いていました。私が、作りに行き晩御飯を作りました。そうすると無理に食べるのです。母は父に「ほうら健が作ってくれたご飯、全部食べたよ」と言いました。父は目に涙をたくさん浮かべ「うん。うん」と言いました。母は、私が作ったと言うことで無理して食べていました。手にはもう握力がありません。指は曲がったままです。よくこんな綺麗な字で手紙が書けるものだと思います。平成七年に亡くなっていますので母は、あと四年で命を閉じます。
私たち子供達には、痛いとか苦しいとか、後ろ向きな言葉は言わないんですが、父と洋子姉ちゃんには言っていますね。洋子姉ちゃは母が愚痴を言えるただ一人の人でした。
父は、母がこんなになっても仕事です。父は六十四歳ですね。父が最も活性化していたときです。私が今、六十六歳です。この頃は二人でよく飲みに行きました。新橋に父の小学生の時(父が北朝鮮に数でいた時)の同級生の女性がやっている店です。店名を「よもぎ」といい、女将さんは、たしか「みよちゃん」と言いました。父と私が話していると、みよちゃんによく言われていました「よく親子でそれだけ話をすることがあるね笑」と。この店はかみさんもきたことがあります。料理がうまかったなあ。
父は同窓会が大好きで、小学校、松空会(帝国海軍松山航空隊の同窓会)などなど三つも四つも幹事をやっていました。なつかしいなあ。
それでは母から叔母への手紙をご覧ください。妹(幸が働いていた日本銀行を辞める決心をしたみたいです)。
「もう春の日差しですね。洋子ちゃんの家の近くは、そろそろつくしがめを出すのでは・・・。さっきそんな事を考えながら洗濯を干していました。今日、12日は幸が4月30にⅡいでやめる事を云う日です。お父さんは札幌出張で11日の朝一番の飛行機で行きました。雪まつり、最後の日なので見物するのだそうです。今朝、天和があって札幌は雪だそうです。3日間の連休に電話をしようかな思ったのですが、皆忙しいのに私だけひまな気がして楽しい話でもあったらいいのですがいろいろ考えたらかけられなくなってしまいました。
13日
今日は、やめると云えないで(幸)が帰ってきました。なかなか云えないでなやんでいます。今日は(幸の)28歳の誕生日です。快晴です。幸が生まれた時もこんな快い天気でした。大きくなってもう結婚していいのに、と思ったりして・・・。
大洋村(茨城県:家を建てたかった親父が仕事が調子が良くなって晩年に買った別荘。よくここで親戚が集まって宴会をしました)になかなか行けなくて、こんな快い天気だと行ってみたいなあと思います、でも、次の土曜日はおばあちゃん(父方の祖母)の七回忌で近くの姉弟だけ寄って法要をしてもらいます。そして、3月23日みなが集まって我が法事です(さすが母は法事と法要の違いがよくわかっています)。
13日の今日はお父さんが出張から帰ってきます。昨日テレビでやってたのですが、雪まつりのを全部こわしていました。すぐこわさないとくずれたりしてあぶないのだそうです。もったいないなあ・・・と見ていました。くずした雪がトラックに何台分だとか・・・。こんな事でも日本の国が平和なのか、戦争を経験「している私にはこわいような気がします。
あしたは病院です。行き先はいつも病院。去年入院していた時、一緒だった人2人が又入院、手術です。一人は股関節、一人はひじ。みんな悩みの電話がかかってきます。その度なんとかリウマチがこの世からなくならないかと思います。すこし落ち込んでいるので暗い手紙になってごめんなさい。そのうち又元気になります。悪い風がはやっています。くれぐれも気をつけてくださいね。では又。洋子ちゃんへ 汎子」
※大洋村は今はもう平成17年の市町村合併でありません。名前は太平洋に由来しています。茨城県の北浦の近くです。太平洋がとても綺麗です。
父は帝国海軍予科練出身なので先にちっていった
英霊たちを偲びたかったのでしょう。
さて、いつもの通り母の中学卒業の時の寄せ書きです。昭和三十二年です。
お袋、今日多々野サト子さんだよ。
何度も書きますが。本当んこの頃の女性は教養が深いですね。
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