義一生誕百二十二歳(皇紀人弐千六百八十五年 令和七年(2025年)五月二十二日 木曜日)

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平成二十一年(2005年)九月二十日に開始したブログ累計記事 現在10097通目です(後で数えなくていいように)
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 北前船をやっていた豪商 寳德家の、その北前船が4隻一度に沈んで、寳德家は没落しました。そして、祖父は、当時日本統治下にあった朝鮮に役人で渡りました。でも、祖父は相変わらず大酒を食らっていたことまでを前回紹介しました。父が姉弟たち向けに書いた「寳德義一生誕百年祭(当時)」を、孫の健が改編しています。つづきをどうぞ。当時の風習をとても楽しく読むことができます。

 昨日、親父が作った家系図(平成十三年:2023年版)を令和七年版に置き換えようとしました。でも、時間掛かりそうだし、みんなの奥さんの旧姓をしらなかったりで時間掛かりそうです。と言うことで宿題。

 あれからわんさか子供も生まれていますし、結婚もたくさんしています。亡くなった方もいます。親父の姉弟夫婦で今、まだ、ご存命なのは、レイ子おばちゃん(三男 卓おじちゃんの奥さん)と、一栄ねえちゃん(末っ子 治にいちゃんの奥さん)だけです。残念ながら行方がわからない方もいます。仲がよかった、いとこの香代ちゃん(同い年:長女 敏子おばちゃんの次女)なんかどこにいるのかなあ。この子はとてもおてんばで、下が崖のところで蔓にぶら下がってターザンのようなことをしたり、橋の欄干を乗り越えて向こう側を走っていったりしていました。私は中学までは身体が強い方ではなかったので、どちらが男かわかりません笑。ちょうど1ヶ月早く(七月二十日)生まれていたから「私の方がお姉ちゃん」と威張っていました。社会人になって、何回か会う機会があって食事したりしましたが、その後、私が結婚するまで全く会いませんでした。

 法事かなんかで親族全員が私の家に集まった時(あっ、新年会だ)、私のかみさんをみて「全然連絡くれなくなったと思ったらこんな綺麗な人をお嫁さんにもらって」と首を閉められました笑。という香代ちゃんもとても美人でした。今、どげんしよるとかいな。

 またみんなをブログで紹介しますね。

「おじいちゃん、こんな一族になったんだよ。ロシアで寝ている場合じゃないって。お酒好きなんでしょ?みんなよく飲むよ」

 さて、親父が書いた「寳德義一生誕百二十年祭(これは祖父の誕生日に合わせて書いています。平成十五年四月十五日です)」のつづきを書きます。この年に私は四枝の心臓バイパス手術を十一月にしています。いつかみんなで集まりたいなあ。いやがるかなあ。俺、あと四十年生きるから、祖父の生誕百六十歳、とみんなの父親の生誕祭をやろうかなあ。
    ある正月、どこかで転んだのでしょう。山高帽が凹んでいました。

この画像はフリーです。健編集。

 山高帽の材質はなんでしょうか。内側から金槌で叩いてももとに戻りませんでした。

 30歳だいで血圧が200を超えていました。いつも胡桃を2個手に持って、ガラガラといわせていましたが、「弓」をやるようになってから血圧は急降下しました。

 3年で2段。そのあとは京都で受験しなければならないのでそのままになっていました。

 "巻藁三段"という言葉があり、弓道は的を狙わなくても、巻藁(まきわら:弓を引く練習をする藁(わら)を巻いたもの)で型をきちっと決める練習をすると、上達するというのです。我が家の庭には巻藁がありました。この写真はその勇姿です。つづく

(ここからは健です)
 父がなぜ祖父のことを姉弟宛に書いているか。当時は、長男は特別扱いでした。父は姉弟ではただ一人祖父に旅行なんかに連れて行ってもらっていたみたいです。その時、祖父は一等車で豪華な食事。父は二等車で駅弁だったそうです。これが当時のしつけです。女の子は最初から女の子ですが、男の子は最初から男の子ではありません。「お前は男だ。男の使命はこれだ」と教えなければ決して強くならないのです。私は、父から、「お父さんがいない時はお前が家族を守るんだぞ」と言い聞かされて育てられました。それが今は女性が男性に女性を求めます。こんなことでは世の中は良くなりません。弱い男を育てて、欧米支那ロシアと言う野蛮人たちとどうやってたたかうのでしょうか。私は母は、私に勝てとは言いませんでした。はっきりとは言いませんでしたが負けているても負けないようにしなさいと暗に言っていました。

 そういうことから祖父を一番よく知っているのは、父なのです。父だけなのです。特に、末弟の治おじちゃんは、祖父のことなど全く知りません。治にいちゃんは私によく言っていました。「健、俺は親父をしらんのや」。これは男にとって非常に辛いことです。自分の生きる基準がないのです。たとえどんなドングされ親父でもそれはそれで反面教師になります。自分の根になります。

 父は、そんなことを姉弟たちに伝えたかったのではないでしょうか。つづく

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このページは、宝徳 健が2025年5月22日 00:50に書いたブログ記事です。

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