昭和三十五年(1960年)秋季大会のことなので、私はまだ二歳です。偉そうなことを言っても私も覚えていません。
実家の近くのテニスクラブで知り合ったTさんという人とKさんという人と、よく飲みに行っていたんです。それぞれ十歳ぐらい差があるので、Tさんはもう八十半ばです。この人が早稲田の出身です。スキーの名手です。Kさんは立教の出身。俺は義塾です。
ある時、Tさんの家で三人で飲んでいたんです。その時にTさんが話してくれたのが、慶早優勝決定六連戦です。まさに死闘です。慶早戦というのは、一種独特の雰囲気があるでしょう。今は、禁止されていますが、かつては前の日に、神宮球場の周りにみんな集まって、一晩中、宴会をしていたんです。下級生なんかは、無理やり飲まされて急性アルコール中毒になって、よく救急車で運ばれていました。
私? 今では酒は弱くなりましたが、その頃はザルでした。どんなに飲んでも酔いませんでした。おそらく二升ぐらいは飲んでいたでしょう。
大学一年のある慶早戦の時です。親友のTJとあとTJの友達の東大のやつ二人で、神宮球場の泊まり込みの早稲田の縄張りに冷やかしに行ったんです。そうしたら、「おいこの慶應の軟弱者」などと声を掛けてきた早稲田のやつが二人いました。「軟弱かどうか試してみるか」となりました。「隣の公園に来い」などとどちらが言ったか。覚えていませんが、隣の公園に行ったんです。その公園で1対1二組の殴り合いです。
私たちは昭和の男なので、今の令和の男みたいに武器を使うとか大勢で人を殴るとかは絶対にしませんでした。ステゴロのタイマン(素手で1対1の喧嘩)です。
喧嘩は大切な物を守るためです。暴力は令和のやり方です。「何を守った?」義塾の誇りです。それにこちらから売っていません。私は売られた喧嘩は必ず買ってきましたが、私から売ったことはないですからね。Tも私も二人とも完勝です。Tの相手は血だらけになって、Tは返り血を浴びていました。私の相手は私にボコボコにされて戦意を喪失していました。東大生は喧嘩の時は木陰に隠れていましたが、私たち二人が勝った途端出てきて早稲田の奴らにいばっていました笑。おっと、こんな武勇伝はどうでもいいです。安藤の六連投です。
生成AIのGeminiに調べてもらいました。助かりますね。これを私が調べていたら他の仕事になりません。Geminiだったら1分です。
早慶六連戦の背景
1960年秋季リーグ戦 :慶應義塾大学が8勝2敗、勝ち点4で優勝に王手をかけていました。
一方、早稲田大学は7勝3敗、勝ち点3と慶應を追う展開でした。
優勝条件 :
慶應 :早慶戦で勝ち点を取れば優勝。
早稲田 :連勝すれば優勝。2勝1敗だと慶應と同率になり、優勝決定戦にもつれ込む。
戦力分析 :慶應は清沢忠彦、角谷隆ら複数の好投手を擁し、打線も強力で、戦力的には慶應優位と見られていました。
早稲田は安藤元博と金沢宏の両アンダースロー投手が軸でしたが、金沢が故障で登板不安を抱えており、安藤への負担が大きい状況でした。
安藤投手の六連投(実際は5試合5完投)
「六連投」という言葉で語り継がれていますが、実際には 6試合中5試合で先発完投 という驚異的な投球を見せました。
早慶戦(1回戦) :慶應が勝利し、優勝に王手。
早慶戦(2回戦) :早稲田が勝利。
早慶戦(3回戦) :早稲田が勝利し、2勝1敗で勝ち点を挙げ、慶應と同率首位に持ち込み、優勝決定戦へ。
優勝決定戦(第1戦) :安藤元博と慶應の角谷隆が投げ合い、1-1で延長11回日没引き分け。
優勝決定戦(再試合) :再び安藤が先発し、早稲田が勝利し、見事優勝を飾りました。
安藤投手は、この5試合で 564球 を投げ抜いたとされています。特に、優勝決定戦の再試合では、慶應の強力打線を相手に粘り強く投げ抜き、早稲田の優勝に大きく貢献しました。
伝説としての意味合い
安藤元博投手のこの活躍は、東京六大学野球、特に早慶戦の歴史において、伝説的な出来事として語り継がれています。彼の超人的な粘り強さとエースとしての責任感が、早稲田大学を優勝に導いたと高く評価されています。
この六連戦での安藤投手の活躍もあり、早稲田大学野球部では エースは背番号11 を着けるのが伝統となっています。
安藤元博投手は、この後プロ野球に進みましたが、この早慶六連戦での活躍は今なお多くの野球ファンに語り継がれています。
(以上、Gemini)
Tさんの家で飲んでいた時に、これを、Tさんが興奮しながら話すんです。慶早戦は興奮しますよ。あの應援を経験したやつにしか分からないでしょう。それがこんなすごいことをやっていたらもう興奮せずにはいられないでしょう。
今だったら、選手の健康などとくだらないことを言い出す大人が出てきます。
私はたかだかインターハイですが、それでも、インターハイが決まる試合では、「もしインターハイに出場できなかったらどうしよう」と思っていました。出場できないなんて頭の片隅にもなかったです。部長も監督もコーチもいなかった私たちにできることは、いつも「練習できつい思いをすることぐらいは試合で負ける苦しさに比べたらどれだけましだろう」という思いぐらいしかできることはありませんでした。試合で死んでもいいなどと思ってやっていました。
私たちでそうなんですから、慶早戦(特に当時)となると、選手も応援も学生もそりゃあすごいことになっています。
女の子が女の子で男の子が男の子の時代でした。今は、女が男に女を求める時代です。世の中狂っています。男女差別はダメです。だけど男女は区別されなければ天が男と女を作った意味がありません。
そうそう、早慶六連戦の二年前に早慶りんご事件(ここでは早慶と言います。早稲田が悪いんですから笑)もありました。また紹介しますね。
お互いが すべてをかけて 磨きあふ 男が男で あった生き方
2.博多仁和加
「慶早戦はなぜあんなに盛り上がるのか」
「それはそうでしょう。ライバルだから。だけど何でも許されるんだよ。『そうけえ』だからね」
お粗末様でした。博多のやつに怒られるでしょう。
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