孤高の美しさ(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)六月25日 水曜日)3

| コメント(0) | トラックバック(0)
平成二十一年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が、現在10,187通目です(後で数えなくていいように)。

このインタビュー記事を読んでくださると、私の今の仕事がよくわかります。

              https://batonz.jp/partner_adviser/keieisen

 カトリック教会主義は、古代としてはあまりに素晴らしい政治システムをつくったあの「ローマ帝国」を潰してしまいました。日本に入ってくるキリスト教は違うのかもしれませんが、一神教というのは非常に不便なものです。どれだけ素晴らしい教義・経典と作っても、それは所詮その一神教の中だけのものです。それどころかカトリック教会主義はかつて同じキリスト教徒でも宗派が違えば殺しました。

 でも、キリストはユダヤ教の改革者の役割をしただけであって、自分を偶像化してはならないと言っています。それをキリスト没後に弟子たちがしました。

 マホメットもそうです。本来のイスラム自体は非常に穏やかな宗教です。

 釈尊も自分を偶像化してはいけないと言っています。みんなわかっていたのです。

 ユダヤ教の神ヤハウエ(でしたっけ?)だけは、アダムとイブを楽園から放出した後も心配で心配でならない「人間」という存在を見張り続けました。

  昨日、岡太神社のところで紹介した、古事記の最初に出てくる神(つまり天地開闢の神)は、役目を果たすとすぐに姿を消しました。さすがですね。
  
 何が言いたいか? 自分のバカさ加減です。
先日も書きました。義塾応援歌「われぞ覇者」です。

雲を破りて 世を照らさんと
 見よや見よ 自由の先駆われ
 「独立」友呼べば「自尊」と我応(こた)え
 おお 共に起(た)たん 吾等が義塾
 慶應 慶應 慶應義塾
 塾祖(福澤諭吉先生)の理想 世に敷かん

 「学問のすすめ」にある、先生の教えは「真の自由」「独立自尊」「一身独立して、一国独立す」です。

 義塾に初めて入って初めて「学問のすすめ」読んで出会った言葉に私は打ちのめさせました。

 今の塾生(現役義塾生)も塾員(義塾卒業生)もほとんどが「学問のすすめ」も「福翁自伝」も読みません。理念なき学問です。

  福澤諭吉先生は、「三田会を組織して徒党を組め」とは一才言っていません。

  私は慶應義塾と福岡県立福岡高等学校を心から愛しています。出光興産は、卒業後、四十年以上経っていますが、私ほど佐三店主の「真に働く姿を顕現し国家社会に示唆を与えろ」という言葉をを愛している人間はいないと自負しています。

 でもそれは福澤先生が、福岡高校創始者が、出光佐三店主が、命をかけて遺してくださった、「孤高たれ!!」という教えです。

人の力を借りるななとは言っていません。でも、自分が弱いから寄り合おうよということとは違います。

 論語の言葉に「德孤ならず。かならず隣あり」とあります。桃李もの言わざれども、下自ずから蹊を成す」もそうです。

 恥ずかしいですが、六十六歳にもなって、私はこれらの言葉をまだ実践していません。福澤先生の言う実学になっていないのです。

  孤高を貫かないと国が潰れていた明治日本。でも見事にそれら孤高が花咲いて繋がって、我が国の滅亡を防ぎました。

 それはそれは辛いです。孤高は! でも、私は孤高を貫き、良い仲間と真に繋がりたい。

  昨日立て続けに徒党のような誘いがあったので、一度、この記事で私自身を確認しました。少しぐらっときた自分が恥ずかしい。

生きていると 常に観るのは 楽な道に 進む自分を 選ぶ自分を
これだけも 生きているのに 何かあると 確認せずには いられぬ自分

 お天道様ごめんなさい。昨日、そげなことがあったと。ごめんなさい。
くそっ!くそったれ!
ばってん、留まったばい! 道を踏み外すとこやったばい。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/10101

コメントする

カテゴリ

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2025年6月25日 08:38に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「美しい数学❷(皇紀二千六百八十五年 令和七年(2025年)六月二十五日 水曜日)2」です。

次のブログ記事は「未来日本昔話:再掲10(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)六月二十六日 木曜日)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。