平成二十一年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が、現在10,1833通目です(後で数えなくていいように)。
昨日の歩数は11,510歩。距離は7,5㎞です。
お天道様、今日も何があっても良か日ば送りますけん観とってください
今日は出光興産の創業節です。古今東西最高の経営者出光佐三店主が一代でその基礎をしっかりと築いた奇跡の会社です。
出光佐三:明治十八年(1885年)八月二十二日生誕
昭和五十六年(1981年)三月七日没(95歳)
出光興産株式会社:明治四十四年(1911年)六月二十門司市(現 北九州市門司区)に出光商会を創業しました。創業当時は日本石油(現 ENEOS)の特約店でした。
当時は卸売全盛期(石油業界だけではなく)でした。なので、出光商会は縄張り争いで結構いじめられました笑。
今の政治の体たらくを見ていたら佐三店主はどういうのでしょう。店主は絶対にしらける人ではなかったので、それも受け容れた上で、とっても素敵なお言葉をいただけるかも。
昭和二十年八月。世界一素晴らしい我が日本は敗戦の憂き目を見ました。その時に「玉音を拝して」という言葉を佐三店主が遺します。
❶愚痴を言うな
❷今から建設にとりかかれ
❸(世界無二の)日本の三千年の歴史を見直せ
と。あの苦しい中で経営者が言える言葉ではありません。当時出光商会は、日本石油と日本石油特約店の縄張り争いで、いろいろ工夫はしましたが国内ではとても苦しい販売状況でした。なので支那や東南アジアに営業展開しました。借入は日本で資産は現地登記で。なので、敗戦と同時にすべての海外資産を失い、国内の負債だけ残りました。考えられない金額が。当時のマスコミは騒ぎます。「出光佐三は自殺するだろう」と。その中でのこの「玉音を拝して」です。引き揚げてくる社員を一人も首にしませんでした。
内定が決まり、入社前に「ペルシャ湾上の日章丸」という本が送られてきました。百田尚樹が「海賊と呼ばれた男」で、たくさん引用しているネタ本です。
就職と言うことだけを考えていた私は、この本を読んでものすごい衝撃を受けました。働くと言うことは、こういうことなのかと。「真に働く姿を顕現し国家社会に示唆を与えろ」という佐三店主の言葉に接した時は、しばらく動くことができませんでした。「世の中という濁流の横に一本に清流をとおせ。濁流にいる世の中があの清流に俺も行きたいなあという世界をつくれ。それが出光の仕事だ」。こんなことを言う民間会社の経営者がいるなんて信じられませんでした。
その前の年に為替差損で1,500億円の赤字をだしました。当時私が就職活動で会社訪問をしたいたときのことです。そんな赤字を出した会社がみんなイキイキ仕事をしているのです。人事のSさん(名古屋支店の時の私の素敵な上司)なんか、面談をしている時に、アイスコーヒーの底に残った氷をとるために、コップを逆さまにして手でかき上げながら私と話しているのです笑。「この素敵な会社で働きく!」と決めました。
私は中学校はどんぐされで「喧嘩の仕方」を学びました。高校はド硬派で「男としてのあり方」を学びました。大学は福澤諭吉先生の「一新独立して一国独立す」という喧嘩を売られました。究極は出光興産株式会社です。「真に働く姿を顕現し国家社会に示唆を与えろ」。こんなことができるんかい。と思いました。でも、今まで喧嘩を売ったことはありません売られた喧嘩は必ず買ってきた私は、買うしかありません。
新入社員で郡山出張所に配属されました。ボロボロのスタンドの2階に事務所があり最初は「エッと」思いました。出張所長のMさんが、「君たちはあと3ヶ月スタンド勤務が」と言ってきました(タメ口でごめんなさい。売られた喧嘩だと思っていたので)。
勤務してみたら、おじさんたちがしらけながら仕事をしていました。出光の直営ですよ!!同期のO君と、「明日から俺たちはここを最高のスタンドにしようぜ!」と誓い独身寮に戻りました。POSもまだ何もない時代です。私たち二人は次の日から最高の接客サービスをしました。するとスタッフの方々がどんどん加わってくるのです。車のケア技術などはもちろん私たちの及ぶところではありませんから実績や収益がどんどん伸びます。
あるとき、もっと素敵なガソリンスタンドにしたい二人は、稟議書を書きました。イベントといってもたかだか4日間20万円のですが。そうすると二階にある事務所からHさんが降りてきました。私たちの稟議書にNOを突きつけた人です。その人曰く「お前らなあ、俺がNOといったからやりたいことをやらないようなことはするな!わかったな」と言いました。私は、面白い会社だなあと感じてその後も稟議書を何度も出しました。おかげで新しいものを買うと言う発想から中古屋さんにいって買う(当時はネットなんてない)とか、スーパーで買うとかしてなんとか予算内に収め、イベントは大成功しました。
その後の出光人生でも同じようなことの繰り返しです。素敵なおっさんがたくさんいました。この人が十年でここまでなったんだったら(生意気ですが)俺は三年でなる。そうしたら我が社のの生産性は上がるはずだと思い。次に行った千葉支店では巨星のT会長に会いました。販売店(出光ではこう呼ぶ)の社長さんには仕事以外でも飲み回されました笑。その次の本社に行った時は、かなりきつい仕事の仕方でしたが信じられないぐらい楽しい仕事でした。特に、女子社員に任せるとこんなに仕事ができるのかと思ったこと(「当時は女子社員は男性のサポーターだった。実際、「困ったことがあったら言ってきてね。それ以外はあなたが判断していいから。責任は俺が取るから」と任せると見事にやりあげます(男性より素晴らしく)。そして、出光の新ガソリンの市場導入のチーフで社内外300人以上プロジェクトを担当した時のやりがいを味わった時。
次の名古屋支店では、先ほどのS課長。その人のNO2で仕事しました。S課長は掴みどころがないです。私はかなり無茶苦茶やりました。なので、支店長・副支店長にはお小言を言われていたはずなのですが、S課長は私には一切言いません。「あ〜こういリーダーシップもあるんだ」と、骨の髄まで味わいました。宇佐美の親父さんにも出逢いました。私の人生でかけがえのない経験です。
次の大阪ではO支店長の度量の広さにまいりました。
本当に感謝しかない出光興産株式会社の19年間でした。
独立した時の思い(内緒)は、まだ果たしていません。だから我が社創業23年の歴史をもう一度やりなおす「たけしTAKE2」なです。百八歳まで、あと四十二年。
「真に働く姿を顕現し国家社会に示唆を与える」
を実現します。他人事ではなく、自分ごとです。
出光興産株式会社、創業節、おめでとうございます。創業114年おめでとうございます。私を鍛えに鍛えてくれた素敵なおっさんたちに感謝合掌!!
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