平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が、現在10,236通目です(後で数えなくていいように)。
このインタビュー記事を読んでくださると、私の今の仕事がよくわかります。
昨日は5,110歩でした。これほど歩きにくい気候は初めてです。命の危険性さえ感じます。言い訳になりますが。
さて、戦国策です。とにかく支那大陸では「どうやったら殺されないか」が 人間の最大テーマになります。私が支那大陸と申し上げている理由がわかりますか? みなさん支那というと漢民族と思っていませんか? 漢民族は春秋戦国時代に9割死んでいますし、なおかつ、漢民族が支那大陸を統一できたのは、「漢」「明」「現在の支那共産党」だけです。あとは周辺民族の奴隷です。とても恨みの精神が強くなり人を信じなくなっています。なので行動が「汚す」「破壊する」「殺す」になります。ちなみに、周辺民族で支那大陸を征服したことがないのは朝鮮民族だけです。
とにかく支那大陸には関わらない方がいい。日本は支那大陸との関係を結んでいない時、必ず幸せになっています。菅原道真が唐が人殺しばかりしているのを嫌悪して遣唐使を廃止しました。見事な平安文化が花開きました。当時の世界では信じられない、女性の小説が生まれました。男女差別の酷い欧米支那ロシアは、当時女性がこんなことをしていたらその女性は殺されていました。
「汚い」「破壊する」「殺す」が当たり前の支那大陸で生きるにはどうすればいいか。それがこの戦国策に詰まっています。
「喧嘩をしてはいけません」と暴力と喧嘩の違いもわからない信じられない愚かなことを母親たちが叫ぶ異常な日本です。そのために欧米支那ロシアアメリカという野蛮国家と戦うこともできない男たちが育っています。
それを戦国策を通じてみてまいりましょう。戦国策をブログで掲載する目的はここにあります。
さて、蘇秦の名前は覚えておいてください。昨日も書きましたが、戦国7カ国で最も強力な秦をおさえるために、他の6国をまとめ、合従(がっ しょう)連合をつくって政治家です。でも、そんな蘇秦にも苦節の時代があったことをみてきました。ここ数回のタイトルは「貧窮なれば、父母も子とせず」で す。
さて、「揣摩(しま)の術」を会得した蘇秦です。
まず趙にはいりました。きらびやかな宮殿で趙王に謁見し、完全に意気投合した蘇秦です。趙王はことのほか喜び、高い地位につけたうえ、宰相にとりたてました。蘇秦は戦車百輌を従え、錦千束、白壁百対、黄金満溢を車に積んで諸国を遊説し、連横(れんこう)を論破して合従を約束させ、秦の勢力を押さえま した。蘇秦が趙の宰相になって、秦は孤立しました。
かくして、天下万民のこと、王侯の威信、謀臣の権力、いずれも蘇秦の考え方で決まりました。諸侯は、糧食を浪費せず、一兵も動かさずに、一矢も用 いずに、兄弟のように親しくつきあうようになりました。一人の賢人が現れて、天下を服従させたのです。
蘇秦は、貧乏な家の出身です。それがひとたび認められ、天下を駆け巡り、秦と対抗する政治家となりました。
さて、蘇秦は、諸国遊説の旅の途中で、家族に会います。20090525
楚王に遊説しようとして洛陽を通ったときのことです。両親は、部屋を片付け、道を清め、楽隊つきの主席を設けて、三十里先まで出迎えました。妻はオ ドオドして伏し目がち。兄嫁は、はいつくばってにじり寄り、平謝りに昔のことを謝りました。「姉上、昔は威張っていたのに、いったいどうしたのですか?」
「あなたが出世してお金持ちになったからですわ」
と言うのを聞いて、蘇秦は、
「ああ、貧乏だと両親までが知らぬ顔。出世をすれば親戚までが恐れ入る。この世に生れたからには地位や金銭もおろそかにはできない」20090526
私がこの話を初めて読んだ時、ものすごい違和感を感じました。家族という概念が全く違うのです。敵国から城攻めに遭い、国(?)は籠城しました。食物がなくなりました。親同士は子供を交換します。自分の子を殺すことはさすがにできないと交換して、そして殺して食べるのです。もしそれが本当に必要なら私なら自分が死んで子供に食わせます。
ある男が仕事のために妻と離婚します。妻はそれを承知して平気で実家に帰ります。将軍たちは自分の妻が人質に取られても平気です。
劉備玄徳が戦に負けて落ち延びた時、ある民家に匿われます。民家の主人は「なんも表名できるものがない」と自分の妻を殺してそれを劉備玄徳に食べさせました。劉備玄徳は涙を流してその主人に感謝しました。
あの愚かなる(日本のほとんどのメディアは絶賛しましたが)毛沢東の文化大革命で、女の子が実の父親を密告しました。女の子は英雄となり車に乗せられてパレードをしました。父親は縛られて共産主義者お得意の「自己批判」をさせられ農地に送られました(支那大陸では農民というのは奴隷と一緒)。
国家(というものがあったかどうか?征服王朝はありますが)が信じられないので国家の基本である家族も全く信じられないのです。なので、上海の青幇(ちんぱん)のような「血のつながりよりも金のつながりを大切にする」のヤクザみたいな組織が生まれます。
こういう国と対峙した時に「喧嘩をしてはいけない日本の男たち」は、どうやって戦いますか?どうやって愛する人を守りますか? どうやって愛する国家を守りますか?
現在支那大陸がかなりきな臭いのです。軍があれほど勝手な行動を今の世界情勢でするでしょうか?
軍の粛清があれほど起こるでしょうか。それも習近平派の。統制が取れなくなっているのかもしれません。どうします? 野蛮人が大挙押し寄せてきたら。それでも言いますか? 喧嘩をしてはいけませんと。
※揣摩(しま)の術」を会得した蘇秦
「揣摩(しま)の術」とは、他人の心を推し量り、相手の意図や思考を巧みに読み取る能力を指します。特に、相手の心情を察して、自分の主張を受け入れさせるための弁論術や説得術として用いられました。
戦国時代の縦横家である蘇秦(そしん)は、この「揣摩の術」を会得したとされています。彼は、遊説に出た当初は誰にも相手にされず、失意のうちに帰郷した際に親族からも嘲笑されました。この経験から発奮し、書物を読み込んで猛勉強し、相手の心を読み解き、説得する術(揣摩の術)を身につけたと言われています。
蘇秦は、この術を用いて、秦に対抗するために燕・趙・韓・魏・斉・楚の六国に同盟(合従策)を説き、各国の君主を口説き落として宰相を兼ねるまでになりました。彼は、各国の君主の状況や国力を具体的に提示し、それぞれの利害を巧みに突くことで、彼らを説得していきました。
つまり、蘇秦が会得した「揣摩の術」は、単なる当て推量ではなく、相手の状況や心理を深く洞察し、それに基づいて最適な説得方法を見出す、高度な交渉術です、プロファイリングのお化けですね笑。
会得した 術で六国 まとめながら 秦と対峙す 蘇秦の凄腕
https://www.youtube.com/watch?v=9v_hqxcgp9c
この動画に蘇秦が「揣摩の術」をどのように活用し、六国の宰相となるまでの軌跡を解説してあります。
コメントする