平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が、現在10,298通目です(後で数えなくていいように)。
このインタビュー記事を読んでくださると、私の今の仕事がよくわかります。
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以前、ある人に「日本には千年企業が8社あるんですよ」と言ったら「たったそれだけですか?」と言われました。その人がどうのこうの言っているのではありません。教育の荒廃なんです。日教組の敗戦後の不埒な教育はここまでの日本にしてしまいました。どんな教育がいいのか。日本人に誇りを持たせる教育です。世界最古の企業 金剛組がわが国にあるんです。ただ、最古の道はそんなに平坦ではありませんでした。
第1章:遺産の創世-金剛組の創業を初期の数世紀❶
聖徳太子の勅命:四天王寺建立と金剛組の創業(敏達天皇七年(578年)創業)
金剛組のルーツは敏達天皇七年(西暦578年)に遡り、これが同社の世界で最も長く存在する企業として位置付けています。その創業は多くの国家や主要な世界宗教の成立よりも古く、その歴史的深遠さを示しています。
繰り返します。前回、千年企業は、まさに不易流行(不易流行:永く続く大切なものをしっかり守り、新しいことを取り入れていく)という我が皇室の精神と申し上げました。
新しいものを取り込むときは、不易を徹底的に検証することが大切です。不易と流行は分離するものではなく、積み上げてきた歴史である不易と新時代からやってきた流行が流れを一(いつ)にすることを当事者たちが創っていくことだからです。
例えば、538年に支那大陸から漢字が我が国に伝来しました。しかし、皇室は漢字を400年間〜500年間使いませんでした。
我國の在り方と新しい漢字の流れが一(いつ)になる
「万葉仮名」ができるまで。
明日から、詳しく世界最古の企業の喜び、苦しみ、絶望等々を話します。
同社の設立は、聖徳太子が日本初の官寺である四天王寺を大阪に建立するという直接的な勅命に端を発しています 。この事実は、金剛組の創業プロジェクトが単なる商業的な事業ではなく、国家的な、そして精神的な意義を持つものであったことを明確に示しています。
この壮大な事業のため、古代朝鮮半島の百済から3人の工匠が招かれました 。その中の一人、金剛重光が金剛組の初代棟梁として、その礎を築いたとされています 。
四天王寺が西暦593年に完成した後も、金剛重光は聖徳太子からこの地に留まり、寺院の維持と保護という重要な役割を担うよう命じられました 。この出来事により、金剛家は「お抱え宮大工」としての基礎的な役割を確立し、その後の千年以上にわたる同社の存在意義を決定づけることになります。
この初期の方向性は、目先の利益を超えた責任感、長期的なコミットメント、そして品質への徹底したこだわりを同社に植え付けたと考えられます。これは、現代の企業の多くが利益追求を第一とする創業動機とは対照的です。このような創業時の精神は、文化遺産の保存と職人技の完全性が短期的な経済的利益よりも優先される企業文化の形成に寄与しました。
この優先順位付けは、後に「職家心得之事」として明文化される彼らの哲学にも繰り返し現れ、数世紀にわたり四天王寺から「禄」を受けて「お抱え」として存在し続けた理由を説明します 。公的な役割を担う組織として早期に確立されたことで、同社は永続性を育む独自の安定性を享受することができました
「私」という字の「禾」は「穀物を表します。「ム」は肘です。肘を曲げて穀物を全て自分の方に持ってくると言う意味です。つまり「うしはく(全て自分の所有物にする)の支配形態」です。奪い合って足りなくする集団です。企業ですから利益は必要です。でも千年企業や素晴らしい経営者はすべて「公」が優先しています。出光興産株式会社創業者の出光佐三店主は「真に働く姿を顕現し国家社会に示唆を与える」とおっしゃっています。「公」はその「ム」を「ハ(屋根の下)」に置くと言う意味です。つまり「分けあって余らせる集団」です。言えば格好良いですが、実行するのは七顛八倒(しちてんばっとう)の世界でしょう。まずそこに千年企業という存在の大きなポイントがありそうです。つづく
千年の 老舗企業が 続くのは 公(おおやけ)という 使命がそこに
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