危機と変革:昭和時代と初の女性棟梁
昭和の御代は、金剛組の存続にとってさらなる厳しい試練をもたらしました。昭和七年1932年、37代目当主・金剛治一は、優れた職人ではあったものの、経営には不向きであったとされ、明治維新以降の寺領減少と昭和恐慌の煽りを受け、極度の経営難に陥りました 。悲劇的なことに、彼は先祖に謝罪し、自ら命を絶ちました 。
しかし、この未曾有の事態の中、治一の妻であるよしゑが38代目当主となり、金剛組の長い歴史上初めての女性棟梁として就任しました 。
よしゑは並外れた回復力とリーダーシップを発揮し、積極的に新たな仕事を開拓し、会社を困難な状況から救い出しました。
特に、昭和十七年(1942年)の政府による企業整備令の下で、軍事用木箱の製造に事業を適応させることで、会社の独立性を維持することに成功しました 。また、昭和九年(1934年)に壊滅的な室戸台風により四天王寺の五重塔が倒壊した際、よしゑは再建を託され、金剛組は昭和十五年(1940年)に見事にこれを完成させました 。
3 8代目としてよしゑが女性でありながら当主に就任したことは、数世紀にわたる男性の血統による継承を破る画期的な出来事でした。これは、極度の危機に際して、リーダーシップにおいて実用主義的かつ能力主義的なアプローチが採用されたことを示しています。
彼女が新たな仕事を開拓し、複雑な政府規制を乗り越え、主要な再建プロジェクトを成功裏に監督した能力は、伝統的な継承規範への厳格な adherence よりも、能力、回復力、そして存続が優先されたことを示しています 。
この出来事は、後に「能力主義による後継者選出」という原則が確立されることを予見させるものです 。この金剛組の歴史における重要な転換点は、伝統が深く尊重されつつも、伝統的な構造やリーダーが不十分であることが判明した場合、組織の究極の存続メカニズムには、ある程度のリーダーシップの適応的柔軟性が含まれることを示しています。
よしゑのリーダーシップはまた、「職家心得之事」の原則である部下への配慮やチームワークの育成を体現しており、核となる価値観への adherence が多様なリーダーシップスタイルで現れることを示しています。
今の我が国は金剛組を見習えばいいですね。高市早苗がこの役割を果たします。喧嘩をしてはいけませんと育てられた岸田がこれに反対しています。
正しいは 誰かではなく 何かだと 主権者国民 強く思ひて
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