千年企業❼金剛組6(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)七月二十七日 日曜日)2

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平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が、現在10,304通目です(後で数えなくていいように)。

このインタビュー記事を読んでくださると、私の今の仕事がよくわかります。

https://batonz.jp/partner_adviser/keieisenryakushi

お天道様、今日も良か日にしますけん観とってください

  金剛組のルーツは敏達天皇七年(西暦578年)に遡り、これが同社の世界で最も長く存在する企業として位置付けています。その創業は多くの国家や主要な世界宗教の成立よりも古く、その歴史的深遠さを示しています。  

 繰り返します。前回、千年企業は、まさに不易流行(不易流行:永く続く大切なものをしっかり守り、新しいことを取り入れていく)という我が皇室の精神と申し上げました

  新しいものを取り込むときは、不易を徹底的に検証することが大切です。不易と流行は分離するものではなく、積み上げてきた歴史である不易と新時代からやってきた流行が流れを一(いつ)にすることを当事者たちが創っていくことだからです。

 例えば、538年に支那大陸から漢字が我が国に伝来しました。しかし、皇室は漢字を400年間〜500年間使いませんでした。

 我國の在り方と新しい漢字の流れが一(いつ)になる
「万葉仮名」ができるまで。

すみません。この最初の部分はとても大切な肝なので、毎回書きます(初めて読まれる読者も多勢いらっしゃるので)

 このブログの中で何回か「欧州でも国家の概念ができたのはこの三百年〜五百年」と申し上げました。それまでは? 確かに存在はその何百年前からありましたが、所詮は貴族の「うしはく(すべて自分の所有物にするという支配形態)」でしかなかったのです。それが三百年〜五百年に国家として目覚めて、第一次世界大戦で固まりました。

 さて、今日の金剛組です。

危機と変革:昭和時代と初の女性棟梁

  昭和の御代は、金剛組の存続にとってさらなる厳しい試練をもたらしました。昭和七年193237代目当主・金剛治一は、優れた職人ではあったものの、経営には不向きであったとされ、明治維新以降の寺領減少と昭和恐慌の煽りを受け、極度の経営難に陥りました 。悲劇的なことに、彼は先祖に謝罪し、自ら命を絶ちました 。  


  しかし、この未曾有の事態の中、治一の妻であるよしゑが38代目当主となり、金剛組の長い歴史上初めての女性棟梁として就任しました 。  


  よしゑは並外れた回復力とリーダーシップを発揮し、積極的に新たな仕事を開拓し、会社を困難な状況から救い出しました。


  特に、昭和十七年(1942年)の政府による企業整備令の下で、軍事用木箱の製造に事業を適応させることで、会社の独立性を維持することに成功しました 。また、昭和九年(1934年)に壊滅的な室戸台風により四天王寺の五重塔が倒壊した際、よしゑは再建を託され、金剛組は昭和十五年(1940年)に見事にこれを完成させました 。  


3  8代目としてよしゑが女性でありながら当主に就任したことは、数世紀にわたる男性の血統による継承を破る画期的な出来事でした。これは、極度の危機に際して、リーダーシップにおいて実用主義的かつ能力主義的なアプローチが採用されたことを示しています。


   彼女が新たな仕事を開拓し、複雑な政府規制を乗り越え、主要な再建プロジェクトを成功裏に監督した能力は、伝統的な継承規範への厳格な adherence よりも、能力、回復力、そして存続が優先されたことを示しています 。


  この出来事は、後に「能力主義による後継者選出」という原則が確立されることを予見させるものです 。この金剛組の歴史における重要な転換点は、伝統が深く尊重されつつも、伝統的な構造やリーダーが不十分であることが判明した場合、組織の究極の存続メカニズムには、ある程度のリーダーシップの適応的柔軟性が含まれることを示しています。


  よしゑのリーダーシップはまた、「職家心得之事」の原則である部下への配慮やチームワークの育成を体現しており、核となる価値観への adherence が多様なリーダーシップスタイルで現れることを示しています。  


 今の我が国は金剛組を見習えばいいですね。高市早苗がこの役割を果たします。喧嘩をしてはいけませんと育てられた岸田がこれに反対しています。


正しいは 誰かではなく 何かだと 主権者国民 強く思ひて

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このページは、宝徳 健が2025年7月27日 06:05に書いたブログ記事です。

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