江戸時代と池坊専好・専定(大衆化と多様化)
16世紀末から18世紀は池坊専好(初代・二代)です。豊臣秀吉や徳川家康といった当時の権力者たちの前で、壮大な作品をいけ、いけばなの技術と精神を保護しました。専定 は庶民にもいけばなが広まる中、より手軽で身近ないけばな「生花(しょうか)」を確立しました。「生花」は、「天・地・人」という日本の自然観に基づき、少ない花材で自然の美しさを表現する様式です。「心の花をいける」という理念がさらに深まりました。いけばなは、一部の権力者だけのものではなく、人々の心を癒し、豊かな生活を彩る存在として定着しました。
現代と池坊専永・専好(グローバル化と新しい表現
20世紀後半から現代45世家元・池坊専永と、現在の家元である46世・池坊専好が、いけばなの伝統を守りつつ、個人の感性を尊重する「自由花(じゆうか)」という新しい様式を生み出しました。これは、花材や形式にとらわれず、現代の多様なライフスタイルに合わせた表現を可能にしました。また、いけばなを世界に広める活動にも積極的に取り組んでいます。いけばなは、「一人ひとりの生き方」という理念のもと、現代の多様な価値観に対応した表現を模索し、いけばなの持つ癒しや自己表現といった価値を現代に即した形で提示しています。
まさに不易流行ですね。古代からの大切なことにこだわりながら、新しい型式を創造し続けています。ここで誤解が生じやすいのですが、不易流行の本来の意味です。歌舞伎にも同じ考えがありますが、しっかりと型を身につけつけた上で新しい型を作っていくことを「型やぶり」と言います。持っている型を身につけないで新しい型を作ろうとすることを「形無し」と言います。つまり、創造とは「ます型をしっかり身につけることが大切です。
金剛組の記事で繰り返し申し上げました。
新しいものを取り込むときは、不易を徹底的に検証することが大切です。不易と流行は分離するものではなく、積み上げてきた歴史である不易と新時代からやってきた流行が流れを一(いつ)にすることを当事者たちが創っていくことだからです。
と。それが時代が変わったと言いながら不易にとことんこだわり新たな型を創造することをせず、すぐに新たな型だけを作ろう(流行を追う)とすると必ず失敗します。
古代に支那大陸からさまざまなモノやコトが伝えられました。皇室はそれを我が国の不易と全て検証しました。漢字は万葉仮名の発明で流れを一(いつ)にしましたが、流れを一(いつ)にできなかった「拷問」「纒足(てんそく)」「科挙」「殺戮」は全て排除しました。
我が国は「許す文化」「創造の文化」です。支那大陸の愚かな「いじめる文化」「汚す文化」「破壊する文化」「殺す文化」は決して受け入れませんでした。
なので、世界で唯一神話に世界から歴史が連続した人間社会の奇跡の国が創造されました。皇室こそが「しらす」つまり我が国の国体なのです。
池坊 華道会の 在り方も 我が国日本の 不易流行
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