千年企業⑫:池坊2(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)八月三日 日曜日) 2

| コメント(0) | トラックバック(0)
平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が、現在10,329通目です(後で数えなくていいように)。

  池坊華道会は、用明天皇二年(587年)に聖徳太子が六角堂に仏様を祀ったことに端を発し、その後1438年の歴史を積むんでいます。世界で二番目に古い企業とされています。その歴史は、仏前供花から始まった「いけばな」を、室町時代には芸術へと昇華させ、江戸時代には大衆文化として普及させました。その根底には「いけばなは心の花」といいう一貫した理念があります。戦乱や時代の変という苦難を乗り越えながら、歴代の当主たちは、日本の美意識や精神性を深く取り入れ、常に新しい表現を模索することで、いけばなをを単なる伝統文化ではなく、時代と共に進化する芸術をして継承してきました。まさに不易流行ですね。

⚫️創業期
  頂法寺は、京都の下京区にあります。聖徳太子が建築資材を探しているときに霊告を受け、聖徳太子が建築資材を探しているときに霊告を受け、六角道を建立しました。この御堂に如意輪観音を祀り、毎日供花を捧げました、この供花を管理するために、小野妹子を住職にしました。小野妹子は六角堂の畔にあった池のほとりに住んでいたことから「池坊」と呼ばれるようになりました。これが池坊の歴史の始まりです。

 この時期のいけばなは、「仏様への供養の心」がその根幹にありました。美しさよりも、仏様への敬意を織り込めることが最も重症視されました。

  ちなみに、聖徳太子は、淡路島に漂着した如意輪観音像を念持仏にしていました。聖徳太子は、用明天皇2年(587年)に四天王寺建立の木材を求め、京都盆地を訪れました。聖徳太子が池で身を清めるにあたって、念持仏を木にかけたところ、動かなくなり、この地に留まって人々を救いたいと聖徳太子に告げました。だから聖徳太子は六角堂を建ててこの念持仏を安置しました。

 すごい事実でしょ。でも千年企業は池坊華道会でも、きちんと日本の歴史に寄り添っているのですね。明日からそれを書きます。 
皇室の 国を創るは 唯一の 世界の奇跡 不易流行

  この部分は池坊の記事の時には毎回書きます。エグゼクティブサマリーと思ってください。

  なんか保存したら記事の間隔が空きすぎますね。すみません。
室町時代と池坊専慶(芸術としての確立)
 15世紀後半に池坊専慶という僧侶が、いけばなを仏前供花から独立した芸術として確立しました。当時の文化人や武将たちに請われ、いけばなを披露し、特に三条西実隆からはそのいけた花の比類なき美しさを称賛されました。この頃に自然の風景を室内に再現する、壮大で複雑な様式「立花(たてはな)」が発展しました。「自然の姿を尊び、美を表現する」という理念が加わりました。いけばなは、単なる花飾りではなく、大自然の雄大さや生命の尊厳を表現する芸術へと昇華したのです。

江戸時代と池坊専好・専定(大衆化と多様化)

 16世紀末から18世紀は池坊専好(初代・二代)です。豊臣秀吉や徳川家康といった当時の権力者たちの前で、壮大な作品をいけ、いけばなの技術と精神を保護しました。専定 庶民にもいけばなが広まる中、より手軽で身近ないけばな「生花(しょうか)」を確立しました。「生花」は、「天・地・人」という日本の自然観に基づき、少ない花材で自然の美しさを表現する様式です。「心の花をいける」という理念がさらに深まりました。いけばなは、一部の権力者だけのものではなく、人々の心を癒し、豊かな生活を彩る存在として定着しました。


現代と池坊専永・専好(グローバル化と新しい表現

 20世紀後半から現代45世家元・池坊専永と、現在の家元である46世・池坊専好いけばなの伝統を守りつつ、個人の感性を尊重する「自由花(じゆうか)」という新しい様式を生み出しました。これは、花材や形式にとらわれず、現代の多様なライフスタイルに合わせた表現を可能にしました。また、いけばなを世界に広める活動にも積極的に取り組んでいます。いけばなは、「一人ひとりの生き方」という理念のもと、現代の多様な価値観に対応した表現を模索し、いけばなの持つ癒しや自己表現といった価値を現代に即した形で提示しています。


 まさに不易流行ですね。古代からの大切なことにこだわりながら、新しい型式を創造し続けています。ここで誤解が生じやすいのですが、不易流行の本来の意味です。歌舞伎にも同じ考えがありますが、しっかりと型を身につけつけた上で新しい型を作っていくことを「型やぶり」と言います。持っている型を身につけないで新しい型を作ろうとすることを「形無し」と言います。つまり、創造とは「ます型をしっかり身につけることが大切です。


  金剛組の記事で繰り返し申し上げました。


 新しいものを取り込むときは、不易を徹底的に検証することが大切です。不易と流行は分離するものではなく、積み上げてきた歴史である不易と新時代からやってきた流行が流れを一(いつ)にすることを当事者たちが創っていくことだからです。


 例えば、538年に支那大陸から漢字が我が国に伝来しました。しかし、皇室は漢字を400年間〜500年間使いませんでした。

 我國の在り方と新しい漢字の流れが一(いつ)になる
「万葉仮名」ができるまで。


と。それが時代が変わったと言いながら不易にとことんこだわり新たな型を創造することをせず、すぐに新たな型だけを作ろう(流行を追う)とすると必ず失敗します。


 古代に支那大陸からさまざまなモノやコトが伝えられました。皇室はそれを我が国の不易と全て検証しました。漢字は万葉仮名の発明で流れを一(いつ)にしましたが、流れを一(いつ)にできなかった「拷問」「纒足(てんそく)」「科挙」「殺戮」は全て排除しました。


 我が国は「許す文化」「創造の文化」です。支那大陸の愚かな「いじめる文化」「汚す文化」「破壊する文化」「殺す文化」は決して受け入れませんでした。


 なので、界で唯一神話に世界から歴史が連続した人間社会の奇跡の国が創造されました。皇室こそが「しらす」つまり我が国の国体なのです。


池坊 華道会の 在り方も 我が国日本の 不易流行

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/10245

コメントする

カテゴリ

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2025年8月 3日 03:25に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「新しいドメイン(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)八月三日 日曜日)」です。

次のブログ記事は「未来日本昔話:再掲44(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)八月三日 日曜日)4」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。