祖母の命日(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)九月九日 火曜日)7

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  前に、親戚の法事に行ったとき、和尚さんの説法がありました。「人は二度死ぬ」というテーマでした。一度目はその方が亡くなった時。二度目はその方が忘れられた時だそうです。

 昨日は、母方の祖母の命日でした。このブログに書くのを忘れていました😭。最低の孫です。秋武綾子。昭和三十八年九月八日に亡くなりました。享年五十六歳でした。私は五歳でしたし、私たち家族は、父の仕事の都合で大阪に住んでいましたから福岡県遠賀郡芦屋町に住んでいた祖母の思い出はそんなにたくさんありません。母がよく祖母のことを話してくれていました。手紙もよく来ていました。母曰く「寝てる姿を見たことがないお母さんはいつ寝てるんだろう」「優しくて優しくて怒ったことがないんだよ」と言っていました。祖母は終戦に日になると仏壇に向かって泣いていました。なぜだろうと思ってそっと母に聞くと、敗戦後に北朝鮮から引き揚げる時に亡くなって朝鮮の地に埋葬してきた母の一番上の姉、堯子おばさんのことを思い出して泣いてるんだよ。堯子おばさんも優しい人でねえ、大好きだったよ。と教えてくれました。

 いつもニコニコしていたのははっきり覚えています。母も祖母によく似ていて、本当に病気が重くなるまで「痛い」と言ったことがなかったし、病気が苦しくてもいつも笑っていたし、祖母のようにいつ寝ているかわからないぐらい家事をしていました。

 まだ、芦屋の家は井戸と竈(かまど)の時代でした。でも、おばあちゃんが精一杯の素材で作ってくれた、パンは美味しかったなあ。

 おばあちゃん、ごめん。来年は忘れない。絶対に忘れない。ずっと忘れない。1日遅れたけど、ちゃんと覚えています。ずっと覚えてます。それとお母さんを産んでくれた感謝します。それで私たち姉弟妹が生まれました。

 姉には男の子と女の子(ひ孫)が。その男の子にまた男の子と女の子(玄孫:やしゃご)がいます。私には男の子(ひ孫)がいます。いっぱいいるよ。命を繋いでくれて感謝します。私たちの身体の中にはおばあちゃんが生きているのですね。合掌。

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このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2025年9月 9日 07:15に書いたブログ記事です。

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