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これまで、千年企業の凄さを5社と1地域で観てきました。どの会社も得心のいく千年でした。千年企業とは、
❶真剣に自分たちは、たった千年ではなく永遠に続くということ信じ抜いている
❷核となる「家」がある(上場していない、主語を他人にしない)
❸核となる「家」または「地域」が常に継続に関してのリーダーシップを保持している
❹他者の支配を受けていない(行政・金融機関を含む)
❺不易流行が恐ろしく実践されている(流行を安易に行わず不易と一つの道を創る)
❻皇室の在り方が背骨にある
❼外部要因の危機を何度も乗り越えている
❽内部要因の破綻を一度は味わってい
(EPV8:Eternal Principle Value8:8つの不朽の原則価値と呼びます。千年を不朽に変えました。こちらの方がしっくりします。)
今日は、千年企業田中伊雅と有福温泉と「これら千年企業との違い」について書きます。
田中伊雅は、仏具製造販売を生業とする京の老舗企業です。創業以来、伝統的な技術と品質を継承し、皇室や寺院からの注文を多く受けてきました。しかし、少子高齢化や核家族化、そして宗教儀式の簡略化といった現代の社会構造の変化により、仏壇や仏具の需要が年々減少。かつてのような経営基盤を維持するのが困難な状況にあるそうです。
困難を乗り越えた歴史
田中伊雅は、創業以来、数々の困難を乗り越えてきました。
- 平安時代: 創業期には、仏教の隆盛とともに発展を遂げ、朝廷や貴族からの庇護を受けました。
- 戦国時代: 戦乱によって多くの仏閣が焼失する中、田中伊雅も大きな打撃を受けましたが、復興需要に応える形で事業を継続しました。
- 明治維新: 廃仏毀釈の動きにより、仏教そのものが弾圧された時期も、伝統技術を守り抜くことで乗り越えました。
- 第二次世界大戦後: 戦後の混乱期には、物資不足と経済的な困難に直面しましたが、伝統的な職人技を活かし、事業を再建しました。
1576年(天正4年): 石山寺の合戦により、四天王寺とその支院である勝鬘院(愛染堂)が焼失しました 。しかし、豊臣秀吉の命により1597年に再建された勝鬘院の多宝塔には、「総棟梁金剛匠」の銘が刻まれています 。この多宝塔は、現在も大阪市内最古の木造多宝塔として国の重要文化財に指定されています 。
1614年(慶長19年): 大坂冬の陣の戦禍により、四天王寺の伽藍が再び焼失しました 。この壊滅的な被害の直後、江戸幕府は25代目当主・金剛是則にその再建という重責を託しました 。
1801年(享和元年): 落雷により五重塔が炎上し、その火が境内の大半を焼き尽くす大火災が発生しました 。32代目当主・金剛喜定は、この再建に尽力し、詳細な建築図面や見積書を残しており、これらは現在も保存されています 。
破壊と再建の繰り返しは、単なる後退ではなく、金剛組がその目的を再確認し、技術を洗練させ、組織としての記憶を深化させる重要な機会となりました。
それぞれの再建は、回復力、問題解決、適応的な建築設計における実践的な大規模な教訓であり、彼らの神聖な建築の究極の守護者としてのアイデンティティを強化しました。
歴史的な図面や見積書を綿密に保存する姿勢は、これらの経験から知識を構築し、保持する意識的な努力を示しており、過去の解決策が将来の課題に役立つことを保証しました 。
このような記念碑的な再建プロジェクトへの継続的な関与は、しばしば単一の構造物で数十年を要することもあり、高度に複雑で専門的な建築知識が単に理論的に伝承されるだけでなく、各世代で積極的に実践され、適応され、改善されてきたことを保証し、会社の運営DNAに深く組み込まれることになりました 。これはまた、彼らの仕事に対する深い「ロマン」と誇りを育み、文字通り国の歴史を再構築し、拡張する役割を担っているという意識を形成しました。
明治維新と庇護からの転換
明治維新(1868年)は、金剛組の伝統的なビジネスモデルに深刻な変化をもたらし、大きな困難を突きつけました。1868年(明治元年)、新政府は神道と仏教を区別し、神道を国教として推進する「神仏分離令」を発布しました 。
この法令は、広範な廃仏毀釈運動を引き起こし、四天王寺のような仏教寺院は広大な寺領を失う結果となりました 。その結果、金剛組が数世紀にわたって四天王寺から受けていた定額の禄は廃止されました 。
しかし、逆境にして楽観しです。
この新しい経済的現実への適応を余儀なくされた金剛組は、伝統的な庇護者である四天王寺だけでなく、日本全国の他の寺社からも積極的に仕事を受注するようになりました 。これは、安定した庇護に基づくモデルから、市場競争と積極的な事業開発が求められるモデルへの重大な転換を意味しました。
明治維新は、数世紀にわたる安定した庇護に基づくビジネスモデルから、突然、積極的な市場参入と競争を必要とするモデルへの根本的な転換を強いました。これは、同社がそれまで「営業」や積極的にプロジェクトを獲得する経験がほとんどなかったため、その適応能力が厳しく試されることになりました 。
保証された収入源の突然の喪失は、彼らに、その卓越した職人技以外の新たなビジネス能力を開発することを余儀なくさせました。この時期は、金剛組が地域に根ざした「お抱え」の職人集団から、より多角的な建設会社へと移行する重要な転換点となり、後の近代的なコンクリート建築への進出を含む、さらなる拡張と適応の基礎を築きました。これは、組織の柔軟性と市場への対応能力の重要性を強調しつつ、同時に彼らの核となる能力とアイデンティティを強く維持することの必要性を示しました。
明治維新と庇護からの転換
そして、極め付けは明治維新(1868年)です。金剛組の伝統的なビジネスモデルに深刻な変化をもたらし、大きな困難を突きつけました。1868年(明治元年)、新政府は神道と仏教を区別し、神道を国教として推進する「神仏分離令」を発布しました 。
この法令は、広範な廃仏毀釈運動を引き起こし、四天王寺のような仏教寺院は広大な寺領を失う結果となりました 。その結果、金剛組が数世紀にわたって四天王寺から受けていた定額の禄は廃止されました 。
しかし、逆境にして楽観しです。
この新しい経済的現実への適応を余儀なくされた金剛組は、伝統的な庇護者である四天王寺だけでなく、日本全国の他の寺社からも積極的に仕事を受注するようになりました 。これは、安定した庇護に基づくモデルから、市場競争と積極的な事業開発が求められるモデルへの重大な転換を意味しました。
明治維新は、数世紀にわたる安定した庇護に基づくビジネスモデルから、突然、積極的な市場参入と競争を必要とするモデルへの根本的な転換を強いました。これは、同社がそれまで「営業」や積極的にプロジェクトを獲得する経験がほとんどなかったため、その適応能力が厳しく試されることになりました 。
保証された収入源の突然の喪失は、彼らに、その卓越した職人技以外の新たなビジネス能力を開発することを余儀なくさせました。この時期は、金剛組が地域に根ざした「お抱え」の職人集団から、より多角的な建設会社へと移行する重要な転換点となり、後の近代的なコンクリート建築への進出を含む、さらなる拡張と適応の基礎を築きました。これは、組織の柔軟性と市場への対応能力の重要性を強調しつつ、同時に彼らの核となる能力とアイデンティティを強く維持することの必要性を示しました。
そこに生きたのは、数々の困難を乗り切ってきた技術の承継と蓄積に他なりません。
小売業や飲食業の店長さんに雨の日に「今日の売り上げどう?」と聞くと「今日は雨が降ったからあまり上がっていません」という言葉の多くで遭います。主語が他人ですよね。心理学にマインドフルネスという言葉があります。「自分の立ち位置を知る」という意味です。主語が他人の人はこの自分の立ち位置が全くわかっていない人です。そして、主語が他人の表現は「全部嘘」です。だって、雨が降っても売り上げが上げる人はいますから。田中伊雅・有福温泉ど、金剛組の大きな違いは「主語が他人であるかどうか」の違いです。❶の絶対に続くのが当たり前、❷の核となる家がある、は千年企業の絶対条件なのです。主語を他人にしないための。まず、スタート時点の覚悟が違うと一定いいでしょう。金剛組は明治維新の時の需要が減るどころの騒ぎではないときにも主語を他人にしませんでした。
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