修行じじいのつれづれなるままに(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)大晦日 水曜日)2

| コメント(0) | トラックバック(0)
平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が現在10,879通です。

  百八歳の誕生日まであと、14,846日です。この日に命を閉じるまで健康でいます

     見ると観る 観るより視るへ そして診る 世界の平和を 先に見据へて

国家は判断しなくなった時に空洞化する❺

「診る」とは、日本が平和を実装すること

私はこう定義したい。

「診る」とは、世界平和のあり方を
我が国が"理念ではなく実践"として示すこと

「診る」とは、戦争を
破壊ではなく「創造」に変換していく姿勢を持ち続けること

声高な正義ではない。
力による制圧でもない。

「人を診続ける国家」という在り方そのものを、

世界に提示すること。

それは、大国になることよりも、

ずっと難しく、ずっと尊い道だったのかもしれない。

国家は判断しなくなった時に空洞化する❻

診なかった国家が失うもの

「診なかった」国家は、決断ができなくなる。
なぜなら、決断には"引き受ける覚悟"が必要だからだ。

そして、
「診なかった」国家は、
他国の破壊を止める言葉を持てなくなる。

自らが「人を診てこなかった」ことを、
世界は敏感に見抜くからだ。

私たちは、いま「診る」地点に立てているだろうか

問いは、過去の日本だけに向けられていない。
いまの私たち一人ひとりに向いている。

  • 私は、ニュースを「視て」終わっていないか

  • その奥にいる人間を「診よう」としているか

  • 未来を引き受ける覚悟を、どこまで持っているか

    私たちは、いま「診る」地点に立てているだろうか

    問いは、過去の日本だけに向けられていない。
    いまの私たち一人ひとりに向いている。

    • 私は、ニュースを「視て」終わっていないか

    • その奥にいる人間を「診よう」としているか

    • 未来を引き受ける覚悟を、どこまで持っているか

      私たちは、世界の大きな流れを「診る」当事者であり得るのだろうか。

      その問いを手放さないこと自体が、
      国家を空洞化させない、最初の一歩なのだと思う。(つづく)

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/10826

コメントする

カテゴリ

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2025年12月31日 08:10に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「暦中から読み解く今日のミッション(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)師走大晦日 水曜日) 」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。