修行じじいのつれづれなるままに(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)師走三十日)3

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国家は判断しなくなった時に空洞化する❹

-「視る」ことに気づいた私たちは、次に「診る」という地点に立つ-

ソ連崩壊。
北朝鮮が拉致を認め、5人の被害者が帰国した瞬間。
韓国金融危機。

あの時代、日本には確かに「歴史が動く隙間」があった。
北方領土返還、拉致被害者全員の帰国、竹島返還。
結果論かもしれない。
しかし、「何も言わなかった」ことだけは事実として残っている。

けれど、私は誰も責めない。
なぜなら、私たちは「悪意」ではなく、
ある段階の"見る力"に留まっていただけだからだ。つづく

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このページは、宝徳 健が2025年12月30日 16:15に書いたブログ記事です。

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