「白衣の天使」という一般的なイメージとは異なり、フローレンス・ナイチンゲールは
統計データと政治的な影響力を駆使して、イギリスの医療・衛生システムの根本的な改革を実現した社会活動家・政治家としての側面を強く持っていました。
彼女の政治力は主に以下の点で発揮されました。
- 陸軍省への介入と改革の実行: クリミア戦争中、彼女は陸軍からの抵抗に遭いながらも、本国政府を動かして野戦病院の環境改善に必要な物資や命令を引き出しました。帰国後、彼女はクリミアでの悲惨な戦病死の状況を徹底的に調査し、その原因が病院の劣悪な衛生状態と陸軍省の組織的欠陥にあることを突き止めました。
- 統計データの活用: 彼女は卓越した統計学者でもあり、死因を視覚的に示すための「鶏のトサカ(コックスコム)」と呼ばれる円グラフ(レーダーチャート)を考案しました。この客観的なデータに基づいた報告書を作成し、これを用いて政府高官やヴィクトリア女王、アルバート公といった時の権力者を説得しました。
- 法改正の実現: 彼女の執念ともいえる働きかけは、最終的にイギリス政府を動かし、陸軍の衛生状態に関する調査委員会設置や、インドの公衆衛生局の設置、さらには国内の救貧院付属病院の衛生状態改善のための救貧法改正(1867年)といった具体的な政策・法改正を実現させました。
- 赤十字への反対(政府の責任を追求): 国際赤十字の活動自体には、当初「兵士の救護は政府の義務」という立場から反対していました。これは、民間のボランティアに頼るのではなく、国家が責任を持って兵士の命を守るべきだという、政治的な信念に基づくものでした。
このように、ナイチンゲールは単なる献身的な看護師ではなく、データ分析能力と政治的な手腕を兼ね備え、社会システムそのものを変革した「改革の鬼」と称される人物だったのです。
クリミア戦争(嘉永六年〜安政三年 1853-1856年)は、ロシアの南下政策とオスマン帝国の弱体化(東方問題)を背景に、聖地管理権をめぐる対立から勃発し、ロシアvs オスマン・英・仏・サルデーニャ連合という構図で戦われました。ロシアがオスマン帝国領内に侵攻したことで始まり、イギリス・フランスはロシアの南下阻止とオスマン帝国の勢力維持のため参戦し、ロシアは敗北しました。 日本では、ペリー来航、日米和親条約締結などがありました。
経緯のまとめ
<背景:東方問題と南下政策>
東方問題: 衰退するオスマン帝国(「ヨーロッパの病人」)の領土をめぐり、列強が利権を争う国際問題が起きていました。主なプレイヤーは「仏」「露」「英」
<ロシアの南下政策>
: ロシアは、黒海から地中海への出口(不凍港)を求めて南下政策を進め、オスマン帝国領内への進出を狙っていました。
<直接的なきっかけ:聖地管理権争い>
1852年末、フランスのナポレオン3世がオスマン帝国に聖地エルサレムの教会管理権をカトリック側に与えるよう要求し、トルコ政府がこれに応じました。これに対し、オスマン帝国内のギリシア正教徒の保護者であるロシア皇帝ニコライ1世は、正教徒の権利保障と管理権の復活を要求しましたが、拒否されました。
<開戦:ロシアの侵攻と列強の介入>
1853年7月、ロシアはオスマン帝国の自治公国(モルダヴィア・ワラキア)に軍隊を進駐させ、戦争が始まりました(ロシアは宣戦布告なし)。ロシアの南下を恐れるイギリスと、外交的権威を高めたいフランスは、オスマン帝国を支援するため参戦を決定。イタリア統一を目指すサルデーニャ王国も加わり、ロシア vs オスマン・英・仏・サルデーニャ連合という国際戦争に発展しました。
<戦争の展開と終結>
主要な戦場はクリミア半島のセヴァストーポリ要塞となり、イギリス・フランスの先進的な軍事技術の前にロシア軍は苦戦。1856年のパリ条約で、ロシアは黒海の中立化(軍艦保有禁止など)を強いられ、南下政策は頓挫しました。

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