順読み超訳 大祓詞:しらす(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)五月四日 日曜日)2

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  大祓詞の後半半分を逆読みで超訳しました。そこに書いてあることは我國は、世界でたった一つの
許す国
だったということです。

 では、なぜ、許す国か。それが我が日本の国体
しらす
を実現するためにはゆるすと言うことが唯一の手段だったのです。

 これは人類の一人という人間にとって大きな挑戦です。うしはく(支配)する国体なら、気に入らない人は殺してしまばいいんです。支那大陸や欧州みたいに。悪口を言っているんではありませんよ。私は、30代〜40代に、支那の古典を貪るように読みました。そうしたらある事実に気づきました。「殺す」んです。「許す」なんてないんです。

 良い政治をすると必ず妬まれます。そして、殺されます。そうはならないように自分で作った法律で為政者の頃は他人を殺しても、いざ、妬みから自分がその場から落ちると、次に殺されるのは自分の番です。
それだけではなく、人間を人間と見ていないんです。孔子の好物は人の肉でした。三国志の劉備玄徳は落ち延びた時にある民家に世話になりました。その時に家の主人は何もないからと言って奥さんを殺し、その肉を出しました。劉備玄徳は、涙を流して感謝したそうです。

 他国との戦になり、自分の国に城が籠城に追い込まれ食物がなくなりました。自分の子供を殺すのは忍びないので、他の家同士で、子供を交換して殺してその肉を食べました。

 それでも理想論を語っています。だから古典の言葉は綺麗なのですが、実際はそれを実現しようとしません。支那の古典を実現したのは日本だけです。時々良い人間が出てきます。その人は殺されています。「泣いて馬謖を斬る」という諸葛亮孔明の言葉をみんな賛辞しますが、あれは泣いていません。自分の地位を脅かす優秀な馬謖を殺せたので喜んでいるのです(泣いているふりをして)。こんなことは枚挙に暇がありません。

  暗黒の欧州は、キリスト教から始まりました。ローマ帝国をぐちゃぐちゃにした、カトリック教会主義は、自分たちの言うこと以外何も認めませんでした。欧州に何百年もの間、暗黒の時代が訪れます。日本にもその欧州暗黒戦争の三十年戦争の余波がきます。島原の乱です。教科書は天草四郎を美化しますが、何を言っているか。侵略戦争です。なので徳川幕府はカトリック教会主義との断絶を決断しました。

 江戸時代は、鎖国ではないのです。カトリック教会主義との断絶です。絢爛たる江戸文化が日本で花開きました。政教分離とは政治と「教会」の分離です。宗教の分離ではありません。

 カトリック教会主義は、同じキリスト教徒でも、宗派が違えば人間を殺しまくりました。

 菅原道真は、人殺しばかりやっている唐に呆れ返って、遣唐使を廃止しました。それこそ絢爛たる平安文化が咲き誇りました。

 我が日本だけが、「国体しらす」という途方も無い目標に向かって歩み続けました。

   さて、それが書いてある大祓詞の全文を少しずつ読んで行きましょう。

  まずは、明治天皇の五箇条の御誓文を思い出してください。



  明治天皇はすごい方ですね〜。読むたびに涙が出てきます。

 大祓詞に、
「高天原に神留(かみづま)まります 皇親神漏岐(すめらがむつかみろぎ:男性神) 神漏美の命(かむろみのみこと:女性神)もちて)八百万 の神たちを、神集へに集へ賜ひ、神議論(かむはかりにはかりたまほひて)」

とあります。これが上記、五箇条の御誓文の第一条です。皇室はずっと、大祓詞を大切にしていらっしゃったことが分かります。「国体 しらす」を遺すために。壮大な思ひです。

  とにかく我が日本は、皇室は、しらすとうしはくの戦いでした。でも、誰もしらすなどを目指すものは世界にいません。

 しらすが一番の経世済民の道だとして、皇室は身を捧げてきました。

  明日も、この五箇条の御誓文と大祓詞を比較しながら見ていきますね。

遥か永き 大祓をば 元にして 今の世の中 礎くれる

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このページは、宝徳 健が2025年5月 4日 04:02に書いたブログ記事です。

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