海軍記念日(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)五月二十七日 火曜日)2

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  今日は海軍記念日です。東郷平八郎が率いる我が聯合艦隊がその艦隊力が何倍ものロシアのバルチック艦隊を壊滅させた日です。日露戦争は、君政武民一体となった戦いでした。相手は、世界中の十分の一富を保有する大国ロシアです。朝鮮が得意のあやふやな態度で自国は戦いに参加せず、朝鮮半島を狙っているロシア(というか不凍港が欲しいロシアが朝鮮半島を取りに行った)との戦争が起きました。朝鮮半島と樺太の両方から責められたら日本になす術はありません。なので、なんとか戦争を回避しようとして我が日本は努力します。当時、日本のことを「サル」と呼んでいたロシアはそんな日本の願いを袖にします。

 明治帝は御前会議で和歌を詠まれます。

よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たち騒ぐらむ
(四方の世界はみな平和で同胞と思っているのになぜ波風が立ち騒ぐのか)

 明治帝は生涯に約10万首の和歌を詠まれました。そのなかでもこんな悲哀に満ちた歌はありません。

 重臣たちは、開戦が決まった時に、みな午前会議で泣きました。そしてなんとか早期に戦争を終わらせようとしました。

  これが世界最強の帝國陸海軍を有しながら、日本を潰した官僚化した軍の大東亜戦争との違いです。大東亜戦争時は、昭和帝も午前会議で明治帝の和歌を詠みました。でも、官僚化した軍は期限を決めない泥沼の戦争に突っ込んで行きました。限を決めない戦略なんてありますか?

  山本五十六を美化する声が多いのですが、彼が一番の戦犯です。「一年、二年は存分に暴れて見せましょう」。これはどういう意味かわかりますか? 「二年経ったら負けますからね」です。およそ将軍それも聯合艦隊司令長官の言うことばではありません。「俺たちはここまでやって優位な状況を作るから、長くても二年で戦争を終結させてくれ」と外交と政治に頼むのが本来の山本の使命だったはずです。

 閑話休題。みんな必死でロシアのバルチック艦隊を探します。対馬から来るのかそれとも太平洋側から来るのか。聯合艦隊をひとつしかもたない我が日本の死活問題です。国民もみんなバルチック艦隊を探します。そして、対馬から来るバルチック艦隊を複数の国民が見つけます。

 我が連合艦隊は大本営に打電します。

「敵艦隊見ゆとの警報に接し聯合艦隊はただちに出動。これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」

 これが国会図書館に保存されているその伝聞です。


 そして艦内に通達します。
「皇国の興廃この一戦にあり。総員一層奮励努力せよ」


 福岡県の宗像にある東郷神社の石碑です。

 先人たちが死ぬ覚悟で国を守ってくれたので私たちはロシア人という野蛮人にならなくてすみました。
 「先人たちが」と今、書きました。こんな逸話があります。
  戦局を有利に進めるために旅順港閉塞作戦を我が聯合艦隊は遂行します。その危険な作戦の遂行にあたって艦上層部は人選をします。その時、選に漏れた兵が、士官の元に訪ねてきます。「なぜ、私が選に漏れたのですか?私も参加させて下さい」と。その兵は志願兵ではなく徴兵だったのです。なんとか(たしか有馬参謀)なだめてその士官は兵を返します。その士官は兵が帰った後大泣きしたそうです。
 
 大東亜戦争となんと違うことでしょうか。大東亜戦争の時も士官や兵はこのレベルでした。しかし、将たちが官僚化して腐っていました。山本五十六など、大蔵省を接待して予算を取ってくるのはうまかったのですが、作戦立案・作戦遂行能力はマイナスレベルでした。
 
 見事にバルチック艦隊を打ち破りました(その後の敵将に対する東郷平八郎の扱いは見事でした)。

 さて、日本海海戦の時の聯合艦隊旗艦は「戦艦三笠」です。いまでも横須賀の三笠公園に記念艦として保存されています。

  日本海海戦が日本の勝利で終わった後、世界各国のプレスが取材のため三笠に乗り込みます。するとあの激烈な戦闘をした後とは思えないぐらい、甲板が綺麗に掃除され、兵たちはまるで何もなかったように通常任務についていたそうです。世界各国のプレスは驚愕したそうです。

 これがどの国にもない、我が国特有の精神文化

残心

です。我が国の武道 剣道でも、いくら一本が綺麗に入ってもその後の姿勢が崩れたら、それは一本として認められないのです。なんと美しい我國の文化でしょう。

 サッカーで点を取ったらバカ踊りする幼稚な奴らとは全く違います(誤解しないでください。私はサッカーが好きだから残念だなあと思うだけです)。

 以前、親父から聞いた話です。ある時親父が、自衛隊の見学会に行ったそうです。受付で「甲飛十四期寳德(帝国海軍甲種飛行兵第十四期)です」と言ったら受付の自衛隊員が即座に直立不動になって敬礼し、そして、言ったそうです。「ご案内します!!!!」と。 そこは海上自衛隊ではなく、陸上自衛隊だったそうです。すごいですね。親父は昭和二年生まれです。でも自分では「俺は明治六十年生まれだ」と言っていました。

 先人のみなさん、君民一体となって我國を守ってくださって感謝します。今の日本は陛下以外は日本の大切なことを忘れてしまっています。でも必ず本来の姿に戻します。みていてください。

感謝合掌

敷島の 大和心を 人問はば 明治の男の 意志を示さん

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このページは、宝徳 健が2025年5月27日 01:43に書いたブログ記事です。

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