母から叔母への命の手紙20通目(皇紀二千六百八十五年 令和七年(2025年)五月二十日 火曜日)3

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平成二十一年(2005年)九月二十日に開始したブログ累計記事 現在10093通目です(後で数えなくていいように)
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  ブログはいいですね。気持ちが乱れても書いていると自然と心が整ってきます。心の整理整頓。整理とは捨てることです。整頓とは整えること。命を閉じるまで続けます。

 今日は、母からでなく父から母方の祖父と叔母へ宛てた手紙です。父が椎間板ヘルニアで入院・手術をすることになりました。幸いにも手術は成功したので94歳まで健康に生きることができました。仕事も72歳まで続けることができました。決して競ってはいませんが、親父の軌跡は私の目標のひとつでもあります。みんながどう生きてきたか。それを知ることは自分を知ること。歴史を知ること。当時の状況を知ること。本当に勇気が出ます。

 では、久しぶりのこのブログ記事をお楽しみください。元帝国海軍甲種飛行兵第十四期 宝徳佳男から祖父璋二と叔母(姉ちゃん)への手紙です。母は私を二十六歳の時に産んでいます。この手紙の時の私は、六歳ぐらいです。ですから母は三十二歳で。洋子姉ちゃんは母より一回り若いので、二十歳ですね。父は母より五つ上なので、三十七歳です。ハガキ代は五円です。
「病気をしないのが宝徳家のとりえだと常々威張っていたのが大間違い。お母様(母型の祖母)が亡くなられた日から痛かった腰が二ヶ月以上も医者通いしても癒らないので大阪厚生年金病院で診てもらったところ腰椎の軟骨がのびて神経をシゲ(手紙ママ)きしているので入院しなければならないとの診断で。今はベッドがあくのを待っています。多分来年の正月は病院でしょう。骨をケヅ(手紙ママ)痛いだろうなと思いながら毎日、連絡を待っていますが、なるべく早く入院した方がよいとのことですので、月が改まれば入院だと思います。我が家の主柱が倒れたのではと汎子(ひろこ:母)とおばあちゃんは懸命です。僕も皆に済まないと思っていますが。1ヶ月程だと思われますので、良くなったらまた頑張って働きます。
従って年賀状はどこにも出せないと思いますので宜しく」

 父は生前よく言っていました。「秋武(母の実家)のご両親には、実の息子のように可愛がってもらってなあ」と。母が亡くなった時も「秋武の父と母にはまるで実の子のように可愛がってもらいました。なのに、今回はとんでもないことをしてしまいました。すみません」と参列者全員の前で述べました。確かに、父は母に難儀を与えましたが、母はそれをいつも笑顔で受け取っていました。ただ、一番近くで母を見ていた姉は「あの一言でお父さんを許した」と言いました。

 私が六歳ですから昭和三十九年(1964年)です。選手たちが大活躍した東京オリンピックがあった年です。日本が池田勇人首相の所得倍増計画で高度経済成長でどんどん豊かになった頃です。


 母の中学卒業式の寄せ書きです。昭和二十四年(1949年)です。お袋、このかたのお名前は手持ちの資料からはわからないや。ごめん。


 当時の女性というのはなんと豊かなのでしょうか? やはり戦前の教育は素晴らしかったのですね。

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このページは、宝徳 健が2025年5月20日 02:41に書いたブログ記事です。

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