竹笋生(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)五月十五日 木曜日)

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 昨日の歩数は 歩/60分でした。朝に多めに歩くとその日のスケジュールがかなり楽です。

  今日から、立夏 末候 竹笋生です。たけのこしょうず と読みます。

 竹の子が目を覚まし芽を出す頃です。

 かぐや姫に代表されるように、日本はあらゆるところに竹林がありました。住宅開発などで、どんどん切り崩されていった竹の子山と竹林。竹林は一度崩れるともう元には戻りません。

  小さな時に、竹の子堀りに連れていってもらいました。親父はいつも仕事で家にはいませんので、近所のおっちゃんだったと思います。まだ土から先っぽも出ていない竹の子を笹をかき分けて見つけて、途中で折れないようにゆっくり掘る必要があります。朝早くです。

 学校に行く時に、竹林の横を通ります。朝早く竹林にいった時にはまだ土から出ていなかった竹の子がもう、小学生の私の膝ぐらいにまでなっています。そして、学校に帰ることはもうなんというか大きな竹になっているではありませんか。竹ってすごいなあと思っていました。雨が降ったらまた成長が速い。なので、雨後の筍という言葉があるんでしょうね。
  学校から帰ったら友達と遊びます。石をいくつか広い、竹林に思いっきりなげると石が竹に複数回ぶつかっては跳ね返ってを繰り返すのです。竹林はだいたい静かなところにあるので、その「カンカンカン」という音の響きをとても綺麗に聞いていました。

  家に帰ると竹の子ご飯。うまかったなあ。 小さい頃は、野菜は庭に植えています。夕飯前になると母が、「たけし、ねぎをとってきて」とか言います。果物も庭になっています。豊かな生活ですよね。あと、この頃は蕨とかぜんまいとかこごみた取り放題。もう土筆は終わっていました。

  ちなみにおやつは、山に入って野生の山葡萄とか山いちごとかを食べていました。よもぎとりにいった後は母が蓬餅を作ってくれました。まだ、中学生だった叔父(治)が一緒に住んでいました。七輪で蓬餅を焼いていると、母が「あなたたちは治にいちゃんが食べ終わってからだからね」と言っていました中学生です。腹が減るのでしょうね。バクバク食べて、僕たちが食べるのは2個/人ぐらいでした笑。

 私が大学生になって、治にいちゃんの家にほんとうに久しぶりに遊びにいった時に言ったら、「一栄(治にいちゃんの奥様:かずえねえちゃんと今でも呼んでいます)、たけしに腹一杯食わしてくれ」と治にいちゃんが言いました。このとき、初めて甲子園球場にも高校野球を観に連れていってもらいました。

 小さな輝と淳がいて、可愛かったなあ(今でも)。末っ子の恵ちゃんはまだ生まれていませんでした。

 そうだ、この時は、高校の先輩が就職して高知に赴任していました。「高知のテニスの試合に出る。ダブルスだけの大会だからお前こっちにこい」と言われていたのです。高校以上いなると余程のこたないかぎり先輩には逆らえません。その高知に行く途中で、大阪の治にいちゃんのところに寄って一泊したのでした。大阪南港からフェリーに乗って高知まで行きました。南港までかずえねえちゃんと子供達が送ってくれました。高知の大会は確か優勝したんではなかったかな。初めての高知です。桂浜やらいろいろ案内してくださいました。鰹のタタキもご馳走になりました。

  思い出すのって楽しですね。竹の子一つでこんなにたくさん思い出が。生きているっていいですね。

ひとくちの 竹の子ご飯が たくさんの 思い出になる よもぎと大阪

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このページは、宝徳 健が2025年5月15日 01:15に書いたブログ記事です。

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