祖母の命日(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)五月二十四日 土曜日

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  今日は父方の祖母の命日です。名前はツイ。旧姓は左近です。福井県の三国に両親や親戚が住んでいました。静岡から福岡に父が転勤したときに、外回りで三国の大叔父大叔母のところに泊まったのは覚えています。親父が「健、こんな家にすみたいなあ」と言ったのを覚えています。

  祖母は、私が生まれたときにはもう一緒に住んでいました。時々、白髪を抜いたら一本一円くれたことや、私が「目を瞑って自転車を漕いだら一体どうなるのだろう」と思ってやったら溝に落ちて鳩尾(みぞおち)を打って、うんうん唸っていたとき(バカでしょう笑?)たまたま通りかかった祖母が助けてくれました。そのぐらいかなあ。

 いこいのタバコを吸っていました。

 台所に立ったのは見たことがなかった。いつも座るか散歩に行くか。祖父の話も聞いたことありませんでした。朝鮮でよほど酷い目にあったのでしょう。引き揚げの時は、家族の長が祖母しかいませんでした。あとは子供達。父は海軍に行って祖父はシベリナに拉致されていたので。筆舌に尽くしがたい辛い目をみたのでしょうね。祖母の口から戦争の話は聞いたことがありません。

 一つだけ、覚えているのは、こんなことを話してくれた時のことです。「故郷の福井県越前町丹生郡玉川に引き上げた後帰ってきました。父も退役して合流しました。さて、これからどうするかという話し合い。祖母と父と治と正是(正是はすぐに博多に行ったようですが)、敏子(長女)と卓が関東に行きました。

 越前町から離れる時みんなで海辺に行ったら大きなタコがいたそうです。祖母が手を伸ばしてそのタコをとってみんなで食べたそうです(みんな腹を壊したみたいですが笑)。

  我が家から離れて最期は治にいちゃん(末弟)と一緒に住んでいました。私の母と祖母の折り合いが悪く、治にいちゃんが引き取ってくれたのだと思います。たてまえは「俺は親と住んだ経験がない」ですが、一栄ねえちゃん(治にいちゃんの奥さん)は、良い迷惑です笑。
  誤解を恐れず言います。戦争はやってはいけないのではない。負けてはいけなんです。国家から軍隊が失くなった時に国民はどれだけ酷い思いをするか。戦争の歴史を忘れるなというけれど、敗戦歴史を忘れるなと言う方が正しい。負けるならやらない方がいい。世界最強の帝國陸海軍を有しながら、それがわからない将軍たちの官僚軍隊でした(中には樋口季一郎などの素晴らしい人もいたが官僚化した軍の中では中枢にいけなかった)。

  それに官僚化した軍隊が国を滅ぼした事例です。官僚が国を滅ぼした典型ですね。

  その「敗戦」の犠牲になった人生が祖母でした。

国家とは 強くあれねば 国民が 欧米ロシアに 蹂躙される

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このページは、宝徳 健が2025年5月24日 00:09に書いたブログ記事です。

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