リーダーの本質(皇紀二千六百八十五年 令和七年(2025年)七月十日 木曜日)4

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平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が、現在10,264通目です(後で数えなくていいように)。
このインタビュー記事を読んでくださると、私の今の仕事がよくわかります。

https://batonz.jp/partner_adviser/keieisenryakushitsu/
  (すみません、このURLのアドレスを長い間書き間違えていました。修正しました)

  二十と年以上前、本格的に本を読み始めた頃は乱読でした。司馬遼太郎、山崎豊子、吉村昭、阿川弘之、城山三郎の筆の強さに真実を見抜く目を曇らされたり、支那の古典が「支那人は理想論を言っているだけでそれを実現しようとしていない」ことを知らなかったり(それでも支那の古典は人間の理想論なのでとても勉強になった)、支那の古典の中でも四書五教の護教がとても面白かったり、日本にも素晴らしい心学が育っていることを知ったり、明治の本の凄さをしったとき、科学の本を読んだり、数学の本を読んだり、とにかくいろいろな本とであいました。それさえもない何の意味もないどうしてこんな嘘を書くのだろうと思ったりした本は、前者の本の100倍以上ありました。買ってから「しまった」と思ったことが何冊あったか。でも、それらの本に出逢わなければ良い本を見抜く目は持てなかったでしょう。だからそれらの本にも感謝ですね。本に騙されなくなったのは、本屋に行ったときに本が語ってくれる声を聞くことができるようになった頃です。「よく来たね。私を買って」「おいおい、俺を先い買えよ」「あら、私が先よ」って本達が言うのです。

 出逢った本の中で、池波正太郎先生の本は大好きでした。「男の作法」が初めてでした。こういうことなのか、男の振る舞いはと感じました。「池波正太郎が通った(店)」や「食卓のつぶやき」などを読んでいて、「池波正太郎先生って読者を腹べこにしたい人なのかなあ」と感じました。次に読んだのが「藤枝梅岩」、次が「真田太平記」・・・・・・・などなど、どんどん引きこまえれていくのです。自分が主役になったイメージがはっきりとできるのです。ほとんど読んだかなあと思った時に出逢ったのが
鬼平犯科帳
です。確か坂の上の雲を読む前です。火付盗賊改方 長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶため)です!

 こんな格好いいやつがいるのか!!! と思いました。当時独身だった私は、鬼平が凶悪盗賊をやっつけに出張るときに結婚したばかりの木村忠吾がちゅちょしていると「家族がいるのはお前だけではないぞ」と言います。

 俺も結婚したらこうなるぞ!!!と強く決意しました笑。バカですね。
  鬼平の何に感じたのか。リーダーシップでした。その後、支那の古典では将軍 楽毅(がっき)に出逢ったり、日本の英雄 北条時宗、大久保利通、高杉晋作を知ったり、明治の男達の「ひと隅を照らす」国民一人一人の凄さを知ったりしたときに、英霊達の純粋さを知ったとき、明治の男達が敗戦後にも命を投げ打って仕事をしたり、出光佐三店主をしったとき、福澤先生の本を読んだとき、枚挙に暇がありませんが、いろいろな男達を知りました。

  すべてリーダーシップの素晴らしさなのです。子供の頃から父が幾度となく言っていました。「リーダーというのは生まれ持った才能なんだ。そしてリーダーは何があっても言い訳をせずに自分に全ての責任にあると思え。父さんがいないときはこの家はお前が守れ」と言いました。なんとなくわかったのですが、まだ、はっきりとは認識していませんでした。

 長谷川平蔵に出逢ったとときに、それがはっきりとわかりました。

これがリーダーか

  私のリーダーの教科書は「鬼平犯科帳」長谷川平蔵です。

  昨日、「郵政事業の民営化はJRのようになぜ成功しなかったか」と言うネットニュースがありました。何を今更と思って詳しく読みませんでした。

  その後思ったのは「郵政には、葛西敬之がいなかったではないか」と思いました。民営化する前の状態は郵政どころではありませんでした。国鉄は。酷い左翼労働組合のるつぼです。今でもJR北海道は労働組合が酷いのです。

 葛西さんは我國の大動脈 国鉄民営化後のJR東海社長・会長を長くやられた方です。 こういうリーダーが我が国には星の数ほど育っていました。それが敗戦後の日教組の不埒な教育とGHQが1週間で作った日本国憲法「典」によりリーダーが育たなくなりました。

  日産、東芝をはじめとした大企業がなぜ、こうなってしまったのか。もちろん政府・官僚・日銀の緊縮財政が日本人の心を痛めたのはあるでしょう。でも、明治の男達や敗戦後の昭和一桁なら、こんな状況は血反吐を吐きながらも乗り切ったでしょう。

 あの抜群の利益を挙げていたイトーヨーカ堂がなぜこうなったか。鈴木敏文氏を追い出したからです。

 孫氏の兵法に「兵は易く得るも、将は得難し」とあります。我が国では、我が国を潰した山本五十六のように将がなかなか育ちません。それは兵が優秀だからです。でも、一般的にはし将が非常に重要です。

 私自身もまだまだ将ではありません。108歳まで命を閉じるまで将の修行とします。

船長は 最後に死ぬんだ その覚悟 幼き頃から 聞かされたこと

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このページは、宝徳 健が2025年7月10日 12:14に書いたブログ記事です。

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