平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が、現在10,246通目です(後で数えなくていいように)。
このインタビュー記事をご覧いただくと、私の今の仕事がよくわかります。
歩数は、最低三千歩は歩いています。
お天道様、今日も良か日にしますけん観とってください
「汚い」「破壊する」「殺す」が当たり前の支那大陸で生きるにはどうすればいいか。それがこの戦国策に詰まっています。
「喧嘩をしてはいけません」と暴力と喧嘩の違いもわからない信じられない愚かなことを母親たちが叫ぶ異常な日本です。そのために欧米支那ロシアアメリカという野蛮国家と戦うこともできない男たちが育っています。
その知恵を戦国策を通じてみてまいりましょう。戦国策をブログで掲載する目的はここにあります。
支那大陸の戦国時代は、波乱に富む環境を背景に、さまざまな人物がエピソードを織り成します。生きるために奇想天外な発想、意表をつく論理、男の意気地、はった り、ほら話、どれをとっても「喧嘩をしてはいけません」と愚かなことを言う今の日本にはとても参考になります。この時代は、必死になって智慧を絞らないと、殺されていたのです。
支那の歴史家 司馬遷が「史記」を書くにあたって参考にしたのが「戦国策」です。戦国策の原作者は明らかではありません。おそらく、当時の口承、記録がバラバラと存在していました。これを、現在の形になおして「戦国策」と命名したのが、前漢末の劉向(りゅうきょう)という人です。
今日のテーマは「誘いに乗る女は妻にはできぬ」です。
戦国時代は、人間関係のからみあいがきわめて複雑でした。君主に疑われることは死を意味します。 信頼を回復するために、遊説の士がとった話術の一例です。今回出てくる張儀もこの時代の有名人です。名前を覚えてください。
遊説の士・陳軫(ちんしん)が、楚から秦に帰ってきました。すると張儀(ちょう ぎ)が恵王に言上しました。
「陳軫は王の家臣でありながら、いつも国内の情報を楚にもらしてきました。とても一緒に仕事はできません。追放してください。また楚に行こうとした ら、どうか殺してください」
「もう楚には行くまい」
恵王は、張儀にそう答えておいて、陳軫を呼び出しました。
「何でも望み通りにしてやろう。今度はいったいどこに行くのか。車を出してやるつもりだが」
「楚に行こうと思います」
「張儀がな、「やつは楚に行きますよ」と言いおった。私も実はそう思っていたのだ。楚に行くことはならぬ、と言ったらどこに行く?」
「行くからには、楚以外にありません。楚に行ったら、あなたと張儀の指示にしたがい、二心のないところをお目にかけます」
といって、陳軫は、あるたとえ話をはじめます。(20090617)
「ひとつ、たとえ話で申しましょう。楚の国に妻を二人持っている男がおりました。あ る男が、その二人の妻を誘惑すると、年上の妻はにべもなくはねつけましたが、若い方は誘いに乗ってきました。やがて、二人の妻を持っている亭主が死にました。誘いをかけた男に、ある人が「どうかね、女房にもらったら?年上の方がいいか? それとも若い方?」とたずねると、「年上」と答えました。
「それはまたどうして?年上の方はおまえをふったではないか。色よい返事をしたのは、若い方だろうが」
「他人の持ち物なら色よい返事でききたいが、自分の女房ともなれば操を守ってもらいたいからな」
さて、楚王は名君の誉れ高く、宰相の昭陽もすぐれた人物です。秦に仕える私が、秦の情報をもらせば、楚王はかえってわたくしを信用しますまい。昭 陽も強力をこばむはずです。いかがですか? まだわたしをお疑いですか?」
陳軫は、自分を操の堅い年上の女に見立てたのですね。(20090527)
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