平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が、現在10,296通目です(後で数えなくていいように)。
このインタビュー記事を読んでくださると、私の今の仕事がよくわかります。
https://batonz.jp/partner_adviser/keieisenryakushi
金剛組のルーツは敏達天皇七年(西暦578年)に遡り、これが同社の世界で最も長く存在する企業として位置付けています。その創業は多くの国家や主要な世界宗教の成立よりも古く、その歴史的深遠さを示しています。
繰り返します。前回、千年企業は、まさに不易流行(不易流行:永く続く大切なものをしっかり守り、新しいことを取り入れていく)という我が皇室の精神と申し上げました。
新しいものを取り込むときは、不易を徹底的に検証することが大切です。不易と流行は分離するものではなく、積み上げてきた歴史である不易と新時代からやってきた流行が流れを一(いつ)にすることを当事者たちが創っていくことだからです。
例えば、538年に支那大陸から漢字が我が国に伝来しました。しかし、皇室は漢字を400年間〜500年間使いませんでした。
我國の在り方と新しい漢字の流れが一(いつ)になる
「万葉仮名」ができるまで。
すみません。この最初の部分はとても大切な肝なので、毎回書きます(初めて読まれる読者も多勢いらっしゃるので)
第2章:逆境を乗り越える - 回復力の年代記
破壊と再建のサイクル:戦乱と自然災害を乗り越えて
四天王寺、そしてそれに伴い金剛組は、日本の歴史を通じて、壊滅的な戦乱や自然災害を含む数多くの破壊的な出来事に直面してきました 。これらの困難は、皮肉にも金剛組がその再建能力を実証し、洗練させる機会を繰り返し提供しました。
金剛組が主導した破壊とそれに続く再建の顕著な事例としては、以下が挙げられます。
- 1576年(天正4年): 石山寺の合戦により、四天王寺とその支院である勝鬘院(愛染堂)が焼失しました 。しかし、豊臣秀吉の命により1597年に再建された勝鬘院の多宝塔には、「総棟梁金剛匠」の銘が刻まれています 。この多宝塔は、現在も大阪市内最古の木造多宝塔として国の重要文化財に指定されています 。
- 1614年(慶長19年): 大坂冬の陣の戦禍により、四天王寺の伽藍が再び焼失しました 。この壊滅的な被害の直後、江戸幕府は25代目当主・金剛是則にその再建という重責を託しました 。
- 1801年(享和元年): 落雷により五重塔が炎上し、その火が境内の大半を焼き尽くす大火災が発生しました 。32代目当主・金剛喜定は、この再建に尽力し、詳細な建築図面や見積書を残しており、これらは現在も保存されています 。
それぞれの再建は、回復力、問題解決、適応的な建築設計における実践的な大規模な教訓であり、彼らの神聖な建築の究極の守護者としてのアイデンティティを強化しました。
歴史的な図面や見積書を綿密に保存する姿勢は、これらの経験から知識を構築し、保持する意識的な努力を示しており、過去の解決策が将来の課題に役立つことを保証しました 。
このような記念碑的な再建プロジェクトへの継続的な関与は、しばしば単一の構造物で数十年を要することもあり、高度に複雑で専門的な建築知識が単に理論的に伝承されるだけでなく、各世代で積極的に実践され、適応され、改善されてきたことを保証し、会社の運営DNAに深く組み込まれることになりました 。これはまた、彼らの仕事に対する深い「ロマン」と誇りを育み、文字通り国の歴史を再構築し、拡張する役割を担っているという意識を形成しました。
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