平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が、現在10,301通目です(後で数えなくていいように)。
このインタビュー記事を読んでくださると、私の今の仕事がよくわかります。
https://batonz.jp/partner_adviser/keieisenryakushi
金剛組のルーツは敏達天皇七年(西暦578年)に遡り、これが同社の世界で最も長く存在する企業として位置付けています。その創業は多くの国家や主要な世界宗教の成立よりも古く、その歴史的深遠さを示しています。
繰り返します。前回、千年企業は、まさに不易流行(不易流行:永く続く大切なものをしっかり守り、新しいことを取り入れていく)という我が皇室の精神と申し上げました。
新しいものを取り込むときは、不易を徹底的に検証することが大切です。不易と流行は分離するものではなく、積み上げてきた歴史である不易と新時代からやってきた流行が流れを一(いつ)にすることを当事者たちが創っていくことだからです。
例えば、538年に支那大陸から漢字が我が国に伝来しました。しかし、皇室は漢字を400年間〜500年間使いませんでした。
我國の在り方と新しい漢字の流れが一(いつ)になる
「万葉仮名」ができるまで。
すみません。この最初の部分はとても大切な肝なので、毎回書きます(初めて読まれる読者も多勢いらっしゃるので)
このブログの中で何回か「欧州でも国家の概念ができたのはこの三百年〜五百年」と申し上げました。それまでは? 確かに存在はその何百年前からありましたが、所詮は貴族の「うしはく(すべて自分の所有物にするという支配形態)」でしかなかったのです。それが三百年〜五百年に国家として目覚めて、第一次世界大戦で固まりました。
さて、金剛組の話に戻ります。
明治維新と庇護からの転換
明治維新(1868年)は、金剛組の伝統的なビジネスモデルに深刻な変化をもたらし、大きな困難を突きつけました。1868年(明治元年)、新政府は神道と仏教を区別し、神道を国教として推進する「神仏分離令」を発布しました 。
この法令は、広範な廃仏毀釈運動を引き起こし、四天王寺のような仏教寺院は広大な寺領を失う結果となりました 。その結果、金剛組が数世紀にわたって四天王寺から受けていた定額の禄は廃止されました 。
しかし、逆境にして楽観しです。
この新しい経済的現実への適応を余儀なくされた金剛組は、伝統的な庇護者である四天王寺だけでなく、日本全国の他の寺社からも積極的に仕事を受注するようになりました 。これは、安定した庇護に基づくモデルから、市場競争と積極的な事業開発が求められるモデルへの重大な転換を意味しました。
保証された収入源の突然の喪失は、彼らに、その卓越した職人技以外の新たなビジネス能力を開発することを余儀なくさせました。この時期は、金剛組が地域に根ざした「お抱え」の職人集団から、より多角的な建設会社へと移行する重要な転換点となり、後の近代的なコンクリート建築への進出を含む、さらなる拡張と適応の基礎を築きました。これは、組織の柔軟性と市場への対応能力の重要性を強調しつつ、同時に彼らの核となる能力とアイデンティティを強く維持することの必要性を示しました。
私が今まで経験したクライアントさんに創業永禄三年(1560年)の会社がありました。桶狭間の戦いの年です。刀鍛冶をやっていました。明治維新で刀の需要が大幅に減るなか、この会社は鐵工所に業態を転換しました。たいしたものです。でもその後の対応がいただけませんでした。金剛組のような対応をしなかったため今では、細々と下請けのような仕事をなさっている(でしょう。今でも)。経営とはほんの少しのやり方と考え方を変えることですね。
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