戦国策5(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)七月九日 水曜日)3

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平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が、現在10,259通目です(後で数えなくていいように)。
このインタビュー記事を読んでくださると、私の今の仕事がよくわかります。

https://batonz.jp/partner_adviser/keieisenryakushitsu/
  (すみません、このURLのアドレスを長い間書きましが得ていました。修正しました)

                      お天道様、今日も良か日にしますけん観とってください

   石破はトランプが何か言ってくると、「日本はこういう風に対応しているはずだ」とこちらから仕掛けるのではなく対峙しています。だから関税交渉などはうまくいくはずがありません。岩屋は、「自国に防衛力は自国で考える」とアメリカに言います。どうしようもない外務大臣ですね。吉田茂なんかはアメリカを「ポチ」と言ってうまく使っていました。岩屋には外交センスのかけらもありません。あっ、この人支那共産党が大好きです。参議院議員選挙の中で、自分の主張を述べる時に「我が国」を「この国」という政治家がたくさんいます。どこの国の人? こういう人たちは、戦国策の中ではきっと殺されています。だって無策なんですもの。

支那大陸の価値観は「汚す」「壊す」「殺す」です。なぜか。特に漢民族は周辺民族に支配された歴史です。それも奴隷扱いで。ですから、卑屈な精神がはびこりそうなってしまうのです。

 さあ、この戦国策の記事は、「喧嘩をしてはいけません」という価値観で育てられた暴力人間たちと喧嘩もできない今の政治家のように情けない男の子たちのために書いています。

   さて、楚と斉の同盟を崩そうと、張儀が楚に向かいます。商於の土地を譲るという条件で、楚王に斉と手を切るように依頼します。楚王は、商於の土地 が手に入ると大喜びです。「策士と策士」の続きです。
   楚王は、とても喜び、臣下に吹聴しました。
「商於の地六百里四方を手に入れたぞ」

 臣下たちは、口々にお祝いを述べましたが、遅れてきた陳軫だけは、苦い顔をしてだまっていました。楚王が言いました。

「一兵も動かさず、一人の負傷者も出さず、商於の土地を手に入れたのだ。われながら見事であった。みな喜んでいる。そちだけは、なぜ一人で黙ってい るのだ」

 陳軫が言いました。

「商於の土地は手に入りません。そればかりか、とんでもない事態になりますぞ。よろこんでなぞいられません。わが国が秦からチヤホヤされるのは、斉 と結んでいるからです。土地も手に入らないうちに斉との国交を断てば、わが国は孤立します。秦からチヤホヤされるのもそれまでのこと。かといって斉を断交 するまえに、秦が土地をよこすとは思えません。断交してから土地を要求すれば、張儀にだまされるのがおちです。だまされたと知れば、きっとご立腹になる。 西は秦と衝突し、北は斉と断交する。両国から攻め立てられること必定です」

楚王がい言いました。

「つべこべいうな。わしにまかせておけ」

楚王に意見を述べた陳軫ですが、受け入れられません。

 楚王は、斉に使者を出して、国交を断ちました。その使者の帰国を待ちきれず、かさ ねてダメ押しの使者を出しました。張儀は秦に帰りました。そして、斉に使者をやって、ひそかによしみを通じました。一方、楚王は、約束の土地を受け取るべ く将軍を秦に派遣しました。ところが、張儀は病気と称して会見しようとしません。その報告を受けた楚王は、「張儀は、まだわしが斉との国交を断交していな いと思っているのか」と、ご丁寧にも、斉に勇士を派遣して、斉王を面罵させました。斉と楚が完全に手を切ったことを知って、張儀は、ようやく腰を上げ楚の使者と会いました。

 さあ、ここからが張儀の外交戦略です。孫子の兵法にも「兵は詭道なり」とあります。戦争とはだましあいだ、という意味です。日本人は真面目すぎますから、外交においても、謀略というものを使いません。でも、相手が勝手に負ける状況をつくるのは、軍隊を出して戦争をして消耗をする事よりもよっぽど大 切です。今の、支那共産党なんか詭道だらけです。この戦国策には兵は詭道なりがたくさんあります。(つづく)

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このページは、宝徳 健が2025年7月 9日 02:03に書いたブログ記事です。

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