戦国策7(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)七月十七日 木曜日)5

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平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が、現在10,276通目です(後で数えなくていいように)。
このインタビュー記事を読んでくださると、私の今の仕事がよくわかります。

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  この戦後作策は「喧嘩をしてはいけません」と、暴力と喧嘩の違いもわからない大人たちに教えられた男の子たちに書いています。まったく、大人は時々子供のことを考えるふりをして意味のないことを子供達に押し付けます。私たちの子供頃、子供たちは、一人一振り名刀を持っていました。万能名刀で何をするにも一緒でした。鉛筆を削るのも、弓矢を作るのも、竹とんぼを作るのも一緒でした。それぞれの名刀に子供たちは「名刀政宗」などの名前をつけて誇りの思っていました。ある日突然(うちの家ではそんなバカなことしませんが)「危険だから」と大人たちが名刀を取り上げてしまいました。刀は何も悪くありません。そういう風に教育しない大人たちが悪いのに。

  漫画もそうです。悪書を子供達に読ますなと、手塚治虫の鉄腕アトムまだ取り上げてしまいました。そりゃあ、悪書もあるでしょう。そういうのを読むのも子供です。要は分別や本音と建前は自然と子供達が覚えていくことです。大人たちのの「小さな親切大きなお世話」です。「気が利き過ぎて魔が抜けて」います。本末転倒です。

  そんなことを経験してきた日本の喧嘩が上手いできない男の子たちに支那大陸がいかに「汚す」「壊す」「殺す」かだったことを伝え、自分たちが支那大陸にいたらどうやって生きていくかを考えてもらうために書いています。

 さて、前回の続き。蘇秦と張儀の話の続きからです。 蘇秦を怨んでいた張儀ですが、それは、蘇秦のはからいだと知ります。蘇秦は、誰か心を通じる人間を秦に送りたかったのです。それは合従連合を成功させるためでした。張儀は蘇秦の生きている間は、その恩を徳として、合従連合を切り崩しませんでした。合従連合 に対抗する言葉が連横論です。秦が一対一で各国と付き合うというものですが、張儀は、蘇秦が生きている間は、この連横論を展開しませんでした。

 さて、今日から新しいお話です。「息壌(そくじょう)の戦い」です。

   この話は、また面白い。君主というものは気まぐれなものです。企業の上司と一緒ですね。その気まぐれさをしっかりと押さえた対応が見事です。何日かに分けて掲載します  

 秦の武王(2代)が大臣の甘茂(かんぼう)に言いました。

「周の王室をおさえるために、韓の宣陽(ぎよう)を通って三川(さんせん)まで車道をつくりたい。そうすれば、我が亡きあとも秦は安泰だ」

 学校で習いましたよね。殷-周-秦-漢-三国・・・・と。

 殷は、紂王の時に滅んでいます。最初は善政を敷いていたのですが、妲己(だっき)という無茶苦茶綺麗な、そして無茶苦茶残酷な女性をもらってからはもう目も当てられなくなり、周の武王に滅ぼされました。殷の栄枯盛衰を書いた横山光輝さんの「殷周伝説」という漫画は最高に面白いですよ。

  周の参謀は有名な太公望です。「喧嘩をしてはいけません」の男の子たち読ませたい、戦略書六韜三略(りくとうさんりゃく)という本を書いたことでも有名です。漢の高祖 劉邦に天下を取らせた名参謀 張良は、この六韜三略を誦じていたと言います。誦じてはいませんが私も読みました。現代にも役にたつ書です。

  その周は、約700年(だったっけな)、続きます。でも、春秋戦国時代の末期にはもう息も絶え絶えです。周は息も絶え絶えで力はありませんが、権威はありました。周を押さえることは春秋時代には大切なことでした。でも、秦からそこに行くには韓が邪魔になります。甘茂が答えました。

「魏に行って、韓を討つように工作してきます」

 王はお気に入りの向寿(しょうじゅ)を副使として従わせました。魏に着くと、甘茂は向寿に言いました。

「さきに帰って、王に「魏は甘茂の申し入れを聞きました。しかしまだ韓を攻めぬうように」と申し上げてほしい。この仕事が成功すれば、手柄は全部あ なたに進呈するから」

 向寿は帰国してそのように王に言上しました。王は息壌まで甘茂を呼び戻し、さっそくそのわけを尋ねました。

 ここからの甘茂のもっていきかたが絶妙です。企業においても活用できます。明日からをお楽しみに。

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このページは、宝徳 健が2025年7月17日 12:55に書いたブログ記事です。

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