平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が、現在10,277通目です(後で数えなくていいように)。
このインタビュー記事を読んでくださると、私の今の仕事がよくわかります。
https://batonz.jp/partner_adviser/keieisenryakushitsu/
ちはやぶるはとてもいいですね。でも、また原作が漫画です。漫画家の能力はすごいですが、TVのプロデューサーは恥ずかしくないのだろうか? メディアにそんな恥の文化はないか笑笑。
理想や目標と恥は同義語です。理想や目標を持つからこそ、そこ到達していない自分を見つけます。そして、それを恥と考えます。日本人は、ずっとそうやって生きてきました。
和歌を小学校から学習すればいい。英語を学ぶなとは言いません。でも、英語だけを学習してそこに人間としての裏付けがないと英語で一体何を話せばいいというのでしょうか? それにたった二十六文字しかない英語に比べて、本語には、ひらがなで五十音、カタカナ、漢字(これもほとんどが日本人が作っている)等々豊かな言葉の文化があります。小学校から和歌の学習をしたら、心豊かな人間が育ちます。暴力やその他諸々、我が国における社会問題は、ほとんどが解決するでしょう。
世界で唯一神話の世界から歴史が連続した人間社会の奇跡の国 我國日本のその「永い」歴史の中で、天子様(天皇陛下)から庶民までが大切にしてきたこの文化・文明。大切にしませんか?
私が和歌を詠み始めたのは、四十八歳になってからです。痛恨の極みです。いまだに、へたくさでへたさで恥ずかしくなります。でも、たった一人の女性のたった一つのアドバイスとある先生のたった一つの和歌とたった一つの男の人生から続けられる勇気をもらい、いまでも、その下手くそな和歌を詠んでいます。
明治大帝は、ご存命の間に十万首の和歌を詠まれたと聞きます。あの激動の時代を、すべての国民を導き愛するためには、和歌は絶対に欠かせない拠り所だったのでしょう。これぞ国体しらすのあり方です。
さて、ちはやぶる の中で先週はこんな和歌が出てきました。
白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
文屋朝康(ぶんやのあさやす)の歌です。
白い露に風がしきりに吹きつける秋の野原では、まるで緒で貫きとめていない玉が散り乱れるように、露の玉がはらはらと散っていることだよ。
この歌は、秋の情景を美しく描写した一首でです。
綺麗な歌ですね〜。どうやったらこんな歌が詠めるようになるのでしょうか?
和歌を始めた頃、 ご健在の頃の河野裕子先生に出逢いました。私の和歌が、へたくそなのを言うと「いいのいいの、日本人でしょ。日本人はね、みんな和歌が詠めるようになるんだよ。毎日詠むだけでいいの」と言われました。その言われたことよりも河野先生の笑顔と優しさに触れた時に、和歌を詠みつづけるとこんなに素敵な表情と優しさを持てるのであれば、自分も和歌を詠み続けたいなあ、って、思いました。ちっともうまくなりませんが笑。
もう一人、に出逢いました。夜久正男先生です。夜久先生が万年筆を無くした時の歌を見て「ああ、こういう気持ちで詠めばいいんだと思ったこと、そして、大好きな正岡子規の本を読んだ時に、とにかくかっこうをつけずに見たままを詠めばいいんだと感じました。夜久先生の本も貪るように詠みました。豊かなんです。優しいんです。いいなあ、そこで感じたのが、「人に学び、生き方を学び、生き方を創る」と言う言葉が自然と出てきました。和歌と出逢えたことは私の人生の至上の慶びです。
人に学び 生き方学び 生き方を 創ることこそ 生きる目的
コメントする