戦国策8(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)七月二十一日 月 月曜日)

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平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が、現在10,291通目です(後で数えなくていいように)。
このインタビュー記事を読んでくださると、私の今の仕事がよくわかります。

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お天道様、今日も良か日にするけん観とってください

 この戦後作策は「喧嘩をしてはいけません」と、暴力と喧嘩の違いもわからない大人たちに教えられた男の子たちに書いています。

 憲法違反の日本国憲法「典」を観て、自分だけ幸せならそれでいいと育てられている人たちがたくさんいます。例えば、原発を反対している人たち。では、薪と炭だけの特区を作るからそこに住めばいい。電気を使わずに生活すればいい。

 例えば、自衛隊はダメだと言っている人たち。災害派遣で自衛隊が出動したときに助けれもらうのを拒否したらいい。もし、支那共産党が攻めてきても好きなだけ犯されて殺されればいい(通州事件のようになります)。それが嫌なら日本を出てきけばいい。どれほど海外の国の生活が野蛮かがわかります。

 例えば熊。熊を殺すなと叫んでいる人たち。熊が出没するところに住めばいい。

 暴論でも極論でもありません。自分だけ良ければそれでいいと、憲法違反の日本国憲法「典」が言っているのです。

  戦国策は、支那大陸の「汚す」「壊す」「殺す」国では、殺されないように知恵を使います。日本国憲法「典」を信じている人たちのように「菜葉の肥やし(かけごえだけ)」ではないのです。

  さて、戦国策。大臣の甘茂(かんぼう)が、秦の武王を絶妙に動かします。企業における上司の使い方ですね。企業において、仕事のできない人は、上司の言いつけどおりにやって、環境の変化が起きても上司が考え方を変えたことに気づかず「この前、そうおっしゃたではないですか」と言います。上司の戦略性を常に頭におい て仕事をすることが大切です。つまり昨日書いた「敵の目的」です。
  韓の国を攻略することを命じられた甘茂は、王のお気に入りの向寿(しょうじゅ)を副官にして出かけます。その途中、甘茂は、向寿にこういいます。「さきに帰って、王に「魏は甘茂の申し入れを聞きました。しかしまだ韓を攻めぬうように」と申し上げてほ しい。この仕事が成功すれば、手柄は全部あなたに進呈するから」

 向寿は帰国してそのように王に言上しました。王は息壌まで甘茂を呼び戻し、さっそくそのわけを尋ねました。

 甘茂はこう答えました。

「韓の宜陽(ぎよう)は大県です。むかしから、上党(じょうとう)、南陽の富を集めて、県とはいえ郡に匹敵します。しかも宜陽に入るには多くの難所 を越えなければなりません。容易ならないことです。


 かつて張儀は、先代の恵王にお仕えして、西は巴蜀(はしょく)を併合し、北は黄河以西、南は上庸(じょうよう)まで攻略しました。しかし人々は、張儀をほめずに、張儀を信任した恵王の明をたたえたといいます。


 また、魏の文侯(ぶんこう)が楽羊(がくよう)に中山(国名)を攻めさせたときのこと。楽羊は三年でこれを攻略し、帰国して自分の手柄を自慢しました。 そのとき文侯は、彼を非難した群臣の手紙一箱を示しました。楽羊は額を床にこすりつけ、「私の手柄ではありません。ひとえに王のご威光によるものです」と 言ったと聞いています。


 ところでわたしは何と申しましても外様の家臣であります。もし王の側近が、韓の肩をもって攻撃をやめるように進言すれば、あなたはきっと二人の言うとお りになさるでしょう。それでは同盟国の魏を裏切ることになります。また韓の宰相からは、さては甘茂の一存の出兵であったか、とわたしだけが怨まれます。
20090604

「昔、孔子の弟子の曾子が費にいたときのことです。同姓同名の男が人を殺しました。 それを早合点して曾子の母に知らせた者がいます。「曾参(そうしん:曾子の名前)が人を殺した」。母は、「あの子は人さまを殺すような子ではありません」 と平然として機を織り続けます。しばらくして別の人が知らせにきました。「曾参が人を殺した」。それでも母は、平然と聞き流して機を織り続けました。また しばらくして知らせた人がありました。「曾参が人を殺しましたぞ」。曾子の母は怖くなって、杼(ひ)を投げ捨てて塀を越えて逃げ出しました。曾子の人格、 母子の信頼、二つの好条件をそなえていても、三度まで疑われれば不安になります。


 私は曾子ほどの人格者ではありません。あなたからの信頼も、曾子に対する母の信頼には及びません。そのうえ、私を疑う者は三人にとどまりません。あなた も、杼を投げ捨ててしまうのではないかと、心配です」

 恵王は答えました。

「二人の言うことは聞くまいぞ20090605

 甘茂は宜陽の攻略にかかりました。でも、五ヶ月たっても攻め落とせません。案の定武王の側近が、武王に攻撃中止を進言しました。側近の意見に心を動かされた武王は、甘茂を呼び寄せて中止を命令しました。甘茂は、武王に詰め寄りました。

「息壤をお忘れか」

「そうであった」

 王は全兵力を投入して、甘茂に攻撃を続行させました。宜陽はついに落ちました。

 支那では、下手をすると、殺されるところまでいきます。こうやって身の安全を守る術も必要だったのです。20099606

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このページは、宝徳 健が2025年7月21日 00:49に書いたブログ記事です。

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