戦国策9(皇紀弐千六百八十五年 令和七年(2025年)七月二十四日 木曜日)

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平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が、現在10,301通目です(後で数えなくていいように)。
このインタビュー記事を読んでくださると、私の今の仕事がよくわかります。

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お天道様、今日も良か日にするけん観とってください

  

 この支那の古典、戦後策は「喧嘩をしてはいけません」と、暴力と喧嘩の違いもわからない大人たちに教えられた男の子たちに書いています。

  戦国策は、支那大陸の「汚す」「壊す」「殺す」国では、殺されないように知恵を使います。

  今日から「遠交近攻」です。国家外交の基本ですね。特に、世界で最も軍事密集をしている日本が位置する東アジアでは、誰と結んで、誰と対峙するか という国家戦略は非常に大切なこととなります。

  ここで、登場人物を一人紹介します。范雎(はんしょ)という人です。長い間不遇の身だったのですが、秦に行って昭王に意見書を出したことがきっか けとなって、なんと秦の宰相となります。戦国時代の有名人のひとりです。支那の古典ではこういうのがしょっちゅう出てきます。支那大陸の王朝はずっと昔から、王が絶対権力をもつ「うしはく(全てのものをすべて自分の所有者にする)」です。范雎のような人はこれまでの、政権幹部の人間から妬まれいつも暗殺の危険の危険に晒されます。なのに、なぜ、徴用されたり権力を得たりすることを望むのでしょう。

  范雎が秦の昭王に説きました。

「お国はまことに天険の地、東西南北に天然の要害があります。また戦車は千輌、勇卒百万を擁しています。この武力をもって諸侯にあたるのは、名犬が足の悪いウサギを追うようなものです。天下に覇をとなえるのも難事ではありません。それなのに、国境を固めるばかり、あえて、函谷関(かんこくかん:最も 強い要害)から東に出撃されないのは、宰相の補佐がよろしくないからであって、王の落ち度でもあります」20090610

 王は「どうして私の落ち度だというのだ」と聞き返します。

 范雎は答えます。

「隣接の韓・魏を飛び越して、遠い強国の斉を攻めるには愚策であります。少々の兵力では、斉は破れません。かといって大軍を繰り出せば、本国が危う い。そこで、ご自分の兵はなるべく出さないで、韓・魏の兵を使おうとなさる。それでは、義にはずれています。

 また、同盟国が信頼できないのに、それを飛び越して斉を攻めるのは上策とは申せません。昔、斉が楚を攻めたとき、さんざん相手をけちらして、大い に領土拡張の勢いをみせながら、結局わずかの土地も確保できずに終わりました。いかに領土がほしくても、遠すぎて守りきれなかったからです。しかも、戦い で疲弊し、君臣の不和をまねいた斉は諸国に攻められて破れました。こうして斉王は恥を天下にさらしました。それというのも、遠国の楚を討つことに熱中し、 近隣の韓・魏をふとらせてしまったからです。まるで山賊に武器を貸し、盗人に食料を与えるようなものです」

 さあ、面白くなってきましたね。これは外交の基本です。明治日本はみごとにこれを行っていました。日英同盟です。遠くの国と交わり、近くの国を攻 める。日英同盟は、世界的な快挙でした。20290611

  范雎(はんしょ)の秦の昭王に対する諫言は、まだまだ続きます。

「王よ、遠国と結んで近隣を攻めるがよろしい。一寸の地を得ればその一寸が、一尺の地を得ればその一尺が、確実に王の領土になります。この良策を捨てて遠国を攻めるなど、誤りもはなはだしい。それにこういう例もあるのです。かつて趙が五百里四方もあった隣国の中山(ちゅうざん)を併呑した際、他の諸国の介入をいっさい許しませんでした。それというのも地の利を得ていたからこそできたのです。

 かの韓・魏は、中原に位置する国、まさに天下の要です。天下に覇を唱えようとするなら、まず韓・魏と結んで中原に進出し、楚と趙に圧力をかけるの です。趙が強ければ楚が、楚が強ければ趙が、秦になびきましょう。両国共になびけば、斉は必ず恐れて、丁重に朝貢を請うてまいります。そうなれば、韓・魏 を滅ぼすのは難しいことではありません」

 さて、次回は、この 范雎の諫言に対して、秦の昭王が質問をします。

 今の、日本でいうと、中国に対しては力をつけてきたインドと遠交を結ぶ、ロシアに対しては、バルト各国やトルコ・欧州と結んで対峙する。または、 大英帝国グループと仲良くする。というような感じがいのでしょう。安倍前総理大臣が、病に倒れる前に、インドを訪問しています。これはとても大きな意味がありました。あれほどの戦略性を備えた総理大臣が、野党のみならず、与党まで足を引っ張り、そして、国民、マスコミがこぞって打ち倒してしまいまし た。無知なものです。日本は、10年国家のあり方を遅らせました。しかたがありません。国民が選んだ道なのですから。

                  弊社蔵書より


   こんな本があります。大東亜戦争の日本の目的は、❶石油の確保、❷アジア諸国の植民地を解放すること、❸(これが一番大変だったのですが)共産主義の跋扈で赤化するのを止めるこどでした。赤と接していないアメリカは、そんなことを知らずに本をたたきました。それも戦時国際法違反の戦闘をしかけて。

  そんな日本は、赤化阻止のため帝国陸軍が満州、モンゴル、ウィグルの独立運動を支援することで、「反共・新日国家群」をユーラシア大陸に林立しようとしました。まさに、遠交近攻の外交戦略です。壮大な戦略ですね。この本はドキドキしながら読めます。

  林銑十郎大将、板垣征四郎大将ら軍人や、歴史に埋もれた外交官、諜報員、現地関係者の事跡を発掘し物語にしています。帝国陸軍には樋口季一郎も含め立派な将軍がたくさんいます。大本営はダメでしたが。日本を破壊した山本五十六など帝国海軍の将軍たちとは全く違います。終戦の際、帝国陸軍は継戦を主張しました。当然ですよね、海軍があれだけ出鱈目をやって日本をここまで追い込んだのですが。しかし、大所高所をみて昭和天皇が緊急事態条項をに乗っとって、終戦にしました。

  今の日本もこのくらいの外交戦略が重要です。今回の、天皇陛下のモンゴル訪問はとてつもなく凄まじい皇室外交でした。ロシアと支那共産党に対する。陛下自身は何も語らず(当たり前ですが)

自国軍が  悪くなくとも  敗戦は  メチャクチャされる  国際社会

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このページは、宝徳 健が2025年7月24日 00:49に書いたブログ記事です。

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