戦国策6(皇紀弍千六百八十五年 令和七年(2025年)七月十三日 日曜日)

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平成十七年(2005年)九月二十日に開始したブログの累計記事が、現在10,258通目です(後で数えなくていいように)。
このインタビュー記事を読んでくださると、私の今の仕事がよくわかります。

https://batonz.jp/partner_adviser/keieisenryakushitsu/
  (すみません、このURLのアドレスを長い間書きましが得ていました。修正しました)

お天道様、今日も絶対絶対良か日にしますけん観とってください

  まだ、大阪に住んでいる頃ですから小学校一年生か二年性の頃だったと思います。まことちゃんという友達がいました。なかなか学校に来ないので、お母さんから頼まれて毎日私が、迎えに行くことになりました。迎えに行くと、ギャーギャー喚いたり泣いたりしてお母さんを困らせているのです。こんなこと私の家でやったら放り出されて一生家に入れてもらえません笑。

  あんまりそれが毎日続くので、ある日頭に来てまことちゃんのお母さんの前で、「お前、お母さんに向かって毎朝どんなことしとるかわかっとるんか!」と言ってぶん殴りました(と言っても小学校一、二年生頃ですから大したことはないのですが笑)。そうしたら、まことちゃんよりお母さんの方がびっくりしていました。その日うちの家に連絡があったそうです。「もう迎えに来なくていいし、二度とうちの子と遊ばないでください」と。「こういうことを言われたけど、あなたが判断しなさい」とだけ言われました。でも、まことちゃんは私と遊びたがったのです。その後も「宝徳くん、遊ぼ」行ってきたよなこないような。

  転勤で引越しする日に、まことちゃんが私の家に来て、「荷物の積み込みが終わった僕の家にも寄ってください」と言いました。母はまことちゃんには笑顔で「ありがとうね」と言いましたが。そのあとは無視しました。

  この話は前にも書きました。なぜ、また書いたかというと、最近、まことちゃんのことよく思い出すんです。なぜ、思い出すか。まことちゃんは、石破によく似てるんです。

  支那共産党に放り込まれたから、すぐに殺されるでしょう。

  人のことは言えませんが、私は、もう少しマシだと思います笑。

  まことちゃんや石破に読んでもらいたい戦国策です。

蘇秦に冷たくあしらわれた張儀は、奮起して秦に向かいます。それを知った蘇秦は、喜んで、部下に事の次第を打ち明け、身分を隠させて、十分な路銀 を持たせて張儀のあとを負わせます。そして、秦までの道のり、張儀の面倒をよくみて、首尾よく張儀を秦に送り届けます。さあ、張儀はどうなるのでしょう か。

 さて、昨日からの続きです。ようやく重い腰をあげた張儀です。

 楚の使者と会いました。

 ここからここまで、縦横六里の土地です」

 使者は言いました。

「私は六百里と聞いてまいった。六百里とはなんだ」

張儀
「小心者のこのわたしが、六百里の地を贈るなど言うはずがない」

 使者は帰国して報告しました。楚王は怒り、兵をおこして秦を討とうとしました。陳軫が謁見を請いました。
「申し上げたき儀がございます」
「なんじゃ、申してみよ」
「秦を討つのは得策ではありません。むしろ、城を一つ与えて連合し、斉を討つ方がよいと思います。秦に与えたかわり斉から取る。損はありません。あなた は、斉と断交したうえ、秦の違約を責めようとなさる。これでは、斉と秦の手をにぎらせてやるようなものです。わが国の損害ははかりしれません」

 楚王は聞き入れず、兵をおこして秦を攻めました。秦は斉と連合して、韓までそれに加わりました。楚の軍は大敗しました。
 楚は、土地、人民を失ったばかりか、あやうく滅亡の瀬戸際に追い込まれました。陳軫の意見を聞かずに、張儀の策にはまったのです。まさに、兵は詭道なり ですね。22090601

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このページは、宝徳 健が2025年7月13日 00:48に書いたブログ記事です。

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